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戦中・戦後、特異な学生時代の思い出(戦前編)

2023年04月08日 | 東洋大学校友会(非公式)

戦中・戦後を過ごした特異な学生時代の思い出


「東洋の軌跡ーー世紀をこえて」東洋大学校友会120周年記念誌から全文抜粋



藤井 良晃

(元校友会副会長)

(昭和22年專門部国漢科卒業)

(昭和25年文学部国文学科卒業)


〈都電の曙町停留所で降りて大学へ〉


 戦時特例で中学の4年修了でも受験できるようになったので、私は昭和19(1944)4月に専門部国漢科に入学した。数え年で17歳であった。中学卒業で入学してきた人がほとんどであった。

 都電の曙町停留所で降りて、京北中学の前を通って大講堂と図書館の間の石段を上って入学式に臨んだ記憶がある。高島米峰学長の式辞は弁舌さわやかあった。



*通学電車


 当時の社会情勢を願みると、昭和18年、本土空襲が必至の状況なってきたので、上野動物園の猛獣類が薬殺され、象もライオンも姿を消した。

 徴兵適齢臨時特例が公布され、徴兵年齢が19歳に繰り下げられて、戦闘員の増員がはかられた。9月には女子挺身隊に25歳未満の未婚女子の動員が決定れ、生産人口の補充がはかられた。

 また、戦時動員体制確立要項が決定して、12月に理工系以外の学徒出陣の壮行会が、氷雨の中、神宮の森で行われた。

 国民の暮らしに必要な物資が欠乏し、金属製品の鉄格子、火鉢、貴金属、お寺の釣り鐘などすべて供出させられて陶器で代用させられた。

 昭和19年の1月には、疎開命令が出て、軍需産業が地方に疎開することになった。6月には大都市の学童集団疎開が決定し、8月から実施されることになった。

 疎開する学童の不安、親の心配、引き受ける側の苦労など筆舌に尽くせぬものがあった。軍事教育が強化される一方で、高級料理店、バー、カフェーなどが一斉休業し、新聞は夕刊が廃止された。

 4月には雑炊食堂が開業し、一人一杯二十銭であったが、長い列ができた。はがきは五銭、封書は七銭に値上げされた。

 8月には学徒動員令などが公布されて、疎開して立ち退いた家の柱に鋸を入れてロープで引っ張って解体する作業にかり出された。荒川区の箕輪のあたりの解体作業に出たが、凄い土煙が舞い上がったのを覚えている。空襲による類焼を食い止めるためであった。

 教室での勉学のことを、あまり思い出さないのが不思議である。6月の始めだと思うが、長野県に田植えの手伝いに行くことになった。新宿から夜行列車に乗せられて中央線の松本駅で降り、大糸線に乗り換えて安曇野の田んぼで田植えをし、その晩、夜行列車に揺られて東京に戻ったこともあった。

 学徒動員の歌「ああ 紅の血は燃ゆる」は、当時の軍需省が選定したものであるが、悲壮感あふれる歌であった。

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あとに続けと兄の声 

君は鍬とれ我は鎚

今こそ筆を投げ打ちて 戦う道に二つなし

勝利揺るがぬ生産に 

国の使命をとぐるこそ

勇み立ちたるつわものぞ    我ら学徒の本分ぞ

ああ紅の血は燃ゆる 

ああ紅の血は燃ゆる

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 また、学校に戻って講義を受けたり、戸山が原や赤羽から荒川の河川敷に集合して、軍事訓練を受けたりした。秋の運動会は、飛鳥山の公園で行われた。

 今度は江戸川区の日本化学という会社に動員されることになった。亀戸駅か鍋糸町駅から都電に乗り換えて江戸川の右岸、葛西橋で降りて土手を数分歩くと工場に着く。後に六価クロムの汚染で有名になった会社である。私が配属されたところは、バック堀といわれるところで、鉛の大風呂桶の底に網があって曹達灰を入れて水を張り、一日おいて真っ黄色の水を抜いて残った滓をスコップで掘り出すのである。休まず掘り出して、4時間ぐらいで終わるのである。履いていた地下足袋の布の部分に穴が空いて、皮膚に潰瘍ができて困った。薬害であろうが文句を言うものはいなかった。

 この工場から入隊していく先輩もいた。また、B29の空襲で工場の石炭置き場に爆弾が落ちた。そのときの爆風で石炭が空に舞い上がり、トタン屋根に落ちてきたときのすさまじい音で生きた心地がしなかった。しばらくひっそりとしていたので、おそるおそる声をかけると方々から声がかえってきた。みんな無事であった。


〈六角形の焼夷弾の残骸が残っていた校庭〉


 昭和20310日の夜、東京大空襲に見舞われた。今までは主として軍需工場や軍の施設が狙われていたが、これ以後は無差別な焼夷弾による「焼き尽くし、殺しつくす」作戦に変わった。このときの大空襲で2万余人もの都民が焼死し、行方不明者が多数出た。家屋の焼失は26万戸にも及んで東京の4割が焦土と化した。

 311日は晴れていたようであるが、東京の空は焼煙で一日中太陽が見えなかった。私は田端の正岡子規のお墓である大龍寺にいたが、防空壕の中で焼煙を免れた。

 東洋大学も鉄筋コンクリートの校舎や図書館、大講堂は残っていたが窓のガラスは焼け落ちて、中は無残なものであった。校庭には、六角形の焼夷弾の残骸が突き刺さっていた。

 当分休校せざるを得ないだろうと思って、郷里に帰ることにした。切符が買えなくて電車に乗るのも容易ではなかった。

 5月に入って東京に戻ってきたら、今度は援農動員で、行く先は北海道ということであった。国漢科と経国科の2年生50人ほどが、参加することになった。焼け野原の東京を後にして上野駅から夜行列車に乗せられ、常磐線回りで仙台・盛岡⋯⋯私にとっては初めて見るみちのくの風景である。国漢科の引率の先生は小澤文四郎教授であった。

 青森駅で青函連絡船に乗るのであるが、津軽海峡は要塞地帯ということで、全員が船底のようなところに入れられた。横になっていると、敵の潜水艦に魚雷を撃ち込まれたら⋯私の人生は終焉である。

 魚雷の攻撃を避けて進むせいか、4時間くらいの行程のはずが6時間かかって函館港に着いた。函館では、級友の河田昭二君の実家に数人でお邪魔した。さすがに函館は寒かった。

 また室蘭本線に乗り、夜明け方に降ろされたところが伊達紋別(伊達市)。農協の広場で待っていると、配属される農家の人が馬車を曳いて迎えに来た。出席簿の順番に一人か二人ずつ馬車に乗るのであるが、全く予備知識もなく、どんな農家に配属されるのかもわからなかった。

 駅前から30分ぐらい田舎道をたどって、これからお世話になる農家にたどり着いた。広々とした畑の中の一軒家であった。馬小屋に3頭の馬がいた。10町(10ヘケタール)の畑を耕作しているとのことであった。内地では1町歩の農地を耕していれば立派な農家である。

 夜になると、電気がなくてランプ生活であった。爺さんが徳島県板野郡の生まれで、開拓民としてこの地に来たのだと話してくれた。夫婦と4人の子供がいてみんな女の子であった。

 丘の彼方まで一枚の畑で、境界はポプラの木が植えてある。弁当はその木に括り付けておかないと探すのに大変である。おかずは毎日ニシンの塩漬けである。

 種まきの時期で、広い畑を馬で耕して燕麦(馬の飼料)、麦、豆、馬鈴薯、南瓜、レントゴン(飼料用の玉蜀黍)などの種をまいたり植えたりした。

 有珠山の麓の麦畑が降起して噴火し、田んぼの中に小山ができてしまった。後に昭和新山と名付けられた。夜になると赤く見えるのである。

 そんなある日、室蘭沖からアメリカの戦闘機グラマンの機銃掃射を受けて、木陰のない畑で身を縮めていたこともあった。

 一軒家にいるので、他の学生の様子など全く分からなかった。815日、今日は大事な放送があるから街に行ってラジオを聞いてくるように言われ、代表が聞きに行った。

 帰ってきたので、聞いてみると、雑音がひどくて聞き取れなかったということであった。「忍ぶべからざるをしのびとか聞こえたから堪え忍んで戦争を続けよう」というように聞こえたとのことであった。翌日の新聞で、無条件降伏と大きな活字が目に入った。

 これからどうなるのだろうか。何時になったら内地に戻れるのか、全く情報はなかった。収穫の時期が訪れてきたので、毎日農作業に追われていた。9月も終わって、井戸のつるべが手に凍り付くような10月半ばに、東京に帰れる知らせが届いた。

 帰りには別れを惜しんで、どこで手に入れたのか荒巻鮭やバター、虎豆など当時としたら貴重品である、たくさんの土産をもらって、わずか半年ではあったが農事のお手伝いをした家に別れを告げた。

 北海道内はよかったが、函館からは連絡船が沈んでしまったので、貨物船に乗せられて青森へ向かった。今度は甲板に出て、津軽の海を眺めた。

 去りゆく北海道の山並みに別れを惜しんだ。青森で私たちが乗せられたのは、セメントか石灰のようなものを乗せたらしい貨車であった。夜中に発車したが、電気もトイレもなく、停車駅でホームに泊まらず引き込み線にはいって何分停車するのか分からないのでトイレにいくこともできない。

 盛岡駅に着いてみると、アメリカ兵が銃を肩に担いでリンゴらしきものをかじっていた。無条件降伏を目撃した感じだった。

 24時間かかって、漸く上野駅に着いた。夜中の待合室には浮浪児があふれていた。関節のところ以外は枯れ木のように痩せて腹だけがふくれ、目がぎょろぎょろしていて、何かくれと寄ってくる。背中の荷物は、当時としては貴重品ばかりが入っている。これを開けたら大変なことになりそうなので、心を鬼にして一番電車がくるまでの数時間を待合室で過ごした。(「戦後編」に続く)





 


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