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戦中・戦後、特異な学生時代の思い出〈戦後編〉

2023年04月08日 | 東洋大学校友会(非公式)

〈新制中学・高校の講師をしながら大学へ〉


ここからは戦後篇であるが、曲がりなりにも学生らしい生活が始まるわけである。しかし、軍服を着た復員軍人がちらほらと仲間になってきたりして、学内の雰囲気が変わってきた。

暮らしはといえば、戦争中にもましてインフレ、食糧不足に悩まされた。闇市、鈴なり列車、買い出し、浮浪児などの風景が日常化した。

昭和224月に第二十二回の総選挙が行われ、婦人にも参政権が与えられた。11月には日本国憲法が公布され、新生日本の指針が決まった。

紙幣が使えなくなり、制限付きで新紙幣に切り替えられた。運賃・郵便・電気・酒・たばこなど4倍以上の値上が行われ、物資不足とインフレで餓死者が出た。ヤミも生きるための必要悪であった。

行方不明者を捜す「尋ね人」のラジオ放送が流れ、引き揚げ船のニュースも毎週のように流れ、肉親を探す姿が目を引いた。ちなみに、「岸壁の母」は、実話が歌になったものである。

蚤、虱の発生にアメリカ軍のDDTが威力を発した。こうした暗い世の中で、並木路子の「リンゴの歌」「東京ブギウギ」「異国の丘」などの軽快なメロディーが荒んだ街に流れた。 



〈写真〉戦後間もない東洋大学の校舎


さて、私は大学に戻ったものの、休講が多くて、これ幸いと小石川植物園に行ったり、神田の古本屋を歩いたりした。

とにかく22年の3月に卒業したけれど、ほとんど授業も受けなかったので、このまま社会に出るのはまずいと思

い、親を説得して文学部国文科に進むことにした。

2年の時に卒業までの124単位の半分以上を取得し、2年次からは国漢科卒業者に与えられた、文部省から出た

教員免許証を活用して、新制中学や新制高校の非常勤講師をしながら、週に二日ぐらい大学に通った。いわゆるアルバイト学生である。卒論を出して253月に無事、学士試験に合格という卒業証書をもらい、旧制最後の卒業生になった。

卒業と共に県立高校の教諭に採用された。いくつかの高校を経て、山北高校長を最後に退職し、25年が過ぎ85歳になってしまった。

退職後に校友会の神奈川県支部長や校友会の副会長、学校法人の監事などを務めたが、今はお寺の仕事や畑に出てミカンや野菜作りに携わっている。

母校が創立125周年、校友会も120周年を迎えたので、こんな学生生活を送った学生もいたことを、私なりに述べてみた。


*東洋大学校友会神奈川県支部の藤井良晃相談役は、本年(114日)94歳にてご他界されました。合掌

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