哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

反日デモ

2012-09-18 23:43:23 | 時事
中国の反日デモが激しいという。尖閣諸島の問題だけではなく、中国現政権に対する不満もあるというが、直接的には、日本のものだとわかるものが暴力の矛先になっているそうだ。だから、日本食の店が中国国旗を店頭に掲げたり、日本を表すデザインを隠したりしているという。日本車のボディに、魚釣島は中国のものだ、というシールを、お守り替りに貼っている映像もあった。


さらに、日本人が殴られたという報道もいくつかあったが、いずれも「日本人か?」と聞かれて、殴られているというから、何となく可笑しく感じる。報道では、その日本人がどのように答えたかは明らかではないが、聞かれたからには日本人とわかる反応をしたのだろう。逆に言うと、日本人かどうかを聞かないとわからなかったわけだから、わからないままだったら、暴力を振るいようがないわけだ。


目の前の人物に何か復讐の思いがあるわけでもないにも関わらず、日本人というレッテルが貼られることによって暴力を振るうとか、もしかしたら壊された商品も中国製かもしれないのに、日本というレッテルがあるから壊すとか、一体何に対して暴力を向けているのか。「日本」というレッテルでしかない空虚なものに暴力を向けているのであれば、実はその行為自体が虚しく空を切っているだけではないのか。


中国は確か50もの少数民族がいるそうだから、そのアイデンティティーの在り方も、中国という国家の中で一様でもないのだろう。民族というのは一応血のつながりだが、国家としての「中国」というのはそれを覆うレッテルでしかない。かつて(今も?)ユダヤ人が、ユダヤ人というだけで攻撃を受けたが、ユダヤ人というのはユダヤ教を信奉する人を指すから、血のつながる民族でさえない。いわば宗教のレッテルでしかないわけだ。国家や民族というレッテルに左右されて無意味な争いを続けている事実に、もっと人は気づくべきなのだろう。


日本人も中国人も、国家に帰属する以前に、何にも属さない人間であることに気づけば、何者でもない者同士一体何のために戦い合うのか、という言葉に行き着く。かつてこのようにかたった池田晶子さんは、きっと今回も同様のことを仰ったであろう。