哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

原発の行末

2011-04-02 10:20:00 | 時事
メディアの地震報道の中心は常に福島県の原発に関する対処状況だが、放射線の強さが対応を遅らせているそうだ。そもそも原発について、今回のような高い津波が「想定外」だったとか、過去に同様の津波があったから想定できたはずだとかの議論が報道されているが、思い出すのは、かつて原発反対住民が「原発がそんなに安全なら、需要の最も多い都心に作ればいい」と言っていたことだ。

もし本当に原発が都心にあって、今回のような事態が発生していたら、避難民は数十万人単位では済まないだろうし、多くの企業や行政が業務停止となって、それこそ日本沈没と同じであろう。そうならないように、地方の人口の少ない地区に原発を作ったのは、今回のような事態が「想定内」であったことを意味する。最悪の事態が起こらないとは限らないし、万一その事態が発生した場合には、少数の犠牲のうえに、国民の大多数の生活を守るためということか。


それにしても、原発の燃料棒の過熱・溶融・暴走(臨界)などの説明を何度も聞いていると、まるで燃料棒が、欲棒ならぬ「欲望」の比喩に思えてきてならない。もっと快適な生活をしたい、もっと電気が欲しい、効率的に大量の電力が欲しい、とエスカレートしてたどり着いた原発は、それ自体が人間の欲望を具現化したものと言える。そして欲望は過熱し暴走する。暴走の結果が、放射能で住めなくなった土地の発生や住民の生活基盤の破壊という、取り返しのつかない結果か。本末転倒とはこのことかもしれない。




「科学技術は、生存することそれ自体が価値であり、少しでも長く生存することがよいことなのだ、という大前提を少しも疑わないことでこそ、めざましい進歩を遂げることができたのだ。そして、少しでも長く生存する限り、その生存はより快適なほうがいい、これが例の「クオリティ・オブ・ライフ」という妙な文句の真意である。この延長線上に、やがて「コンビニエンス」という発想が出てくる。便利さが価値になるほど、人間の価値は薄まる。
便利さを享受する愚昧な人々、ただ生存しているだけの空疎な人々、夢の近未来社会とは、要するにこれである。決してわざと悲観的に言っているのではない。何のために何をしているのかを内省することなく、ひたすら外界を追求してきたことの当然の帰結である。」(『死とは何か』「「コンビニエントな人生」を哲学する」より)