せまる本番、する準備。

準備ばかりしている。 明後日の「写仏の庭」の会場つくり。
23日からの「怪し会 伍」の会場準備に必要な椅子やらテーブルの数のチェック。その会に、友人のお嬢さんが来ることになったから「住職、その子に色紙書いてよ」と頼まれた色紙の準備(あははは。私が怪談を朗読するわけではないのですが、何だか嬉しいです)。
明日は10月21日に横浜の名所のアチコチでやるホッチポッチミュージックフェスティバル2012の出演者打ち合わせで、横浜へ。。聲明で出させてくれるそうだ。
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恐怖映像を見て

テレビのオンエアー前の恐怖映像をお坊さんたち9人で20本見せてもらった。
どれがもっとも怖かったかのアンケートもあった。今月30日、TBSで二時間番組中の一つのコーナーらしい。
収録が終わってお坊さんたちは口々に言った。
「生きている人間のほうがよほど怖いですよね」
「中でも、女房がね」
「ああ、そりゃ、本当に怖いですね」
収録現場から60キロの道のりを帰って来て、このブログを書き終えたら、さて、御家内(オッカナイと読みます)と一杯やってから練ることにした。うははは。

写真は、一昨年オーストラリアで撮った、オッカナイ顔をした鳥(みみずく?)です。けっさくな顔してます。
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忙中閑ありに非ず、閑中忙ありである。

午前中、檀家さんが新しく家を建てるというので地鎮祭をした。坊さんだって地鎮祭くらいやります。

大地の神(イラストは地天)に頼むわけですから、真言宗なら尚更、得意分野であります。
土地の四隅と中央に、お酒、お米、お塩をまいて、「ちょっとこの土地をお借りします」とお経をあげる。
不思議だが、とても柔らかで温かい磁場をもった土地のような気がした。
午後は、とにかく猛暑の中、友人のお寺の行事で法話。「これから20年、毎年頼むよ」と言われた。「本堂にエアコンがついたらやるよ」と冗談半分で答えた。ぐははは。
帰宅すると、校正を頼まれている原稿が三本来ていた。うはははは。こうなっては、とても晩酌などしている暇はない。閑中忙ありの一日だった。
あっ、そうだ。せっかくホームページからメッセージをいただいたいるのですが、返信をお返ししても着信拒否になっているのでしょう。戻ってきてしまうものが時々あります。メッセージをいただいた場合には、基本的に二、三日中にはレスをお返ししますので、送信後二、三日の間、着信拒否の解除をしておいていただければ幸いです。特に、A.Yさん!よろしくお願いします。
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反転機能

午前中にお世話になっている春日部のお寺の行事で法話をして帰宅。
今日も今日とて、来年の分まで「写仏の庭」のお手本を描けるだけ描いてみようという魂胆。
仏教に「四無量心(しむりょうしん)」という言葉がある。仏さま(のような人)が衆生(他の人たち)に対して持っているとされる量り知れない大きな四つの心である。
安楽を与えようとする「慈・無量心」。苦しみを除こうとする「悲・無量心」。人が喜ぶことを自分も喜ぶ「喜・無量心」。そして、執着の心がなく誰に対しても平等な「捨・無量心」である。
曼荼羅にはそれぞれ仏さまとして描かれている。曼荼羅では中央より右に全員が描かれているので、中心を無垢ように、全員左向きだ。
今日はその四人の仏さまのお手本を描こうと思ったのだが、何せ四人で一つのグループ、カルテットである。
この四人だけを取り出してセットにしようと思えば、このうちお二人は左に向いてもらわないと、どうにもバランスが取れない。私は絵描きではないから、元の絵の左右をポンとひっくり返せない。
そこで、ありがたいのがパソコンの反転機能である。おかげで、右向きになった。

めでたし、めでたしである。
たぶん、画像をクリックすると、慈菩薩を鮮明にごらんいただけます。その分、私の描いたアラも見えちゃいますけどね。ぐははは。
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仏頂面

気がついたら、来週の「写仏の庭」のお手本を描いていなかった。
何がいいかと曼荼羅図典をめくっていたら仏頂尊のページで目がとまった。
世に仏頂面とは、仏さまの頂きにある髪の毛の盛り上がった部分を言うのだが、仏さまのお顔がどれも表情がないので(瞑想している表情だから仕方がない)、ひいて仏頂面とは、表情に乏しい無愛想な顔のことを指す。
密教では、仏の智恵を分けてそれぞれ人格(仏教では仏格と言います)に仕立てた姿だ。
5種あるとも10種あるとも言われる。そのうち、今日は4種を描いた。写真は「最勝仏頂尊」である。左手に法輪を持つ。

昔よく「君は無愛想だ」と言われることがあった。もし、当時「仏頂面」の語源を知っていたら、「無愛想ではなく、仏の顔と言ってやっておくんなせぇ」と言っていただろう。ぐはははは。
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アシカラズ

「悪いけど、足の土踏まずを踏んでぐでぃ」と家内に頼んだのは四日前だった。
今日は、自分で腹這いになって、右足のカカトで左足の土踏まずをドンドンと叩いて、逆も同様にした。
私にしてみればこんなに頻繁に土踏まずの奥を意識するのは珍しいので、きっと飲み過ぎで肝臓が悪いのだろうと、足ツボの図をみてみたら、叩いて気持ちいいのは胃の部分だった。

どうも、へんだと思ったら、なんのことはない。先日も今日も、足袋に雪駄履きという、足の親指と人指し指に力が入る時間が多かったのだ。妙な部分の筋肉を使っていただけだ。
胃でも肝臓でもなく、足からず・・という話である。あははは(本当は「悪しからず」です)。
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その時、あなたは何が食べたいですか。

私が亡くなって、初めての里帰りの新盆(シンボン、ニイボン、アラボンなどさまざまな読みがありますが、私は最近ニューボンと読んでいます。ぐははは。ウソです)。
その時、久しぶりのわが家にたどり着いて、家族(その時は遺族だが)に「あーらお帰り!」と言われながら、出してもらいたいものは、エクレアとアイスコーヒーだと申し伝えてある。

今宵、お盆。あの世から初めての里帰りをする人たちは、馴染みの家族とどんな夕餉をしているだろう。
私は初日の夕飯は、枝豆と生ビールにしてくれと伝えてある。二日目の昼食はカレーパンである。
お盆になると私はそんな法話を良くする。
死をタブーにしないため、死を無と考えないため、見えないものを信じる力の持続、暖かい家族の思いやり、つまり、お盆というこの麗しき行事が持っている素晴らしい世界観を共有して、持続していただきたいからに他ならない。
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やること、やってから心配する

 あはははは。できた、できた。「十三仏勢揃いの図」である。

 楽しかった。これらのイラスト版の仏様たちは、この先、どんな利用展開になるのだろう。
「やることやってから、心配する」「果報は練って待て」の言葉の通り。やるべきことを一つやった。
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芸術の合点の仕方

箱根の彫刻の森美術館を訪ねたのはこれで三度目だ。
20年ほどまえに、ピカソ館に紹介してあった言葉「人は芸術をわかろうとするが、鳥の声を理解しようとしない」がとても印象的だった。以来、芸術作品を鑑賞する時には「自分は身近な中に感動や感激をしているだろうか」と条件反射するようになった。

で、今回は芸術家が周囲の中にあるものの本質を取り出そうとしているような気がして、自分ならば、どのように本質を探し出し、そして作品として造りあげるだろうと思った。
くぼみの中に突起があり、突起のなかに突起があり、そのまた中にくぼみがある・・・
四角の中に丸があり、その中に三角があり、また丸がある・・・
曲線の中に直線があり゛その中に曲線があり、また直線がある・・・・
ミクロを拡大していくと、マクロに戻る・・・・。
そんなことを考えながら美術館の木陰で休んでいた。そして気がついた。
そんなものをわざわざ造り出さなくても、足元の石、目の前の木や草。人の持ち物など、自分の周囲はすでにそうなっているではないか。
すでに私は芸術に囲まれているし、言い換えれば、私も芸術作品なのだと合点がいった。
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タグを外して

横浜での法話を終えて、そのまま箱根へ。
熟年夫婦のアートな旅である。
絵画や彫刻を観ると、自分でも描いてみたい、造ってみたいと思う。
感じて動こうとするのだから、これか感動させられたということだ。
でなければ、感激である。
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