高尾山の西、高尾地蔵で軍議を開き合戦の相談をした義経一行は、
鷲尾三郎義久に案内され鵯越と白川の分岐点、
蛙岩のところからから山中に入り、白川に出て妙法寺の西から
多井畑(たいのはた)を通り、鉄拐山(てっかいさん)を目ざしました。
その途中一行が休憩をしたという「義経腰掛の松」が多井畑に残っています。
ちなみに白川・多井畑には、鷲尾一族の集落がありました。
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バス停「妙法寺駅前」から「多井畑厄神」停まで乗車。
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一ノ谷付近の古代山陽道(後の西国街道)は、山が海に迫った難路であり、
波が激しい場合は通行不能となるため、須磨寺の手前から鉄拐山・鉢伏山の
東にある多井畑峠を越え、鉢伏山の北側を迂回し塩屋に抜けました。
一説には平安時代末期まで、現在の神戸市西部では、
山陽道は山間部を通っていたという。
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「義経腰掛の松」が多井畑厄除八幡宮鳥居の南西約50m、古代の山陽道沿いにあります。
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右手奥に多井畑厄除八幡宮が見えます。
バス停「多井畑厄神」から、バス道を少しもどった多井畑峠より撮影。
義経一行が駆け抜けた峠道です。
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多井畑厄除八幡宮から古代山陽道を通って義経腰掛の松へ
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義経腰掛の松
1184年(寿永3年)2月7日未明源義経一行は多井畑厄除八幡宮で戦勝祈願した後、
この松の木の下で休息をとり一の谷に向かったと伝えられている。
それから後、村人はこの場所に社を作り「ほんがんさん」の愛称で
親しみと尊敬を込めてお祀りしている。
多井畑厄除八幡宮 多井畑歴史研究会 多井畑自治会
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多井畑厄除八幡宮
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義経腰掛の松に隣接して数多くの供養塔が並べられています。
一ノ谷合戦で命を落とした人達を祀る塚や塔を集めたものでしょうか。
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三草山の夜戦後、播磨の三木の辺で義経と別れ、
明石方面から迂回した土肥実平軍は、2月7日の午前6時の
開戦に遅れまいと進軍し、一の谷・西の木戸に着きましたが、
すでに義経別動隊に加わっていた熊谷次郎直実父子と
平山武者所季重(すえしげ)がこの木戸におし寄せ、
一ノ谷の城郭を攻撃していました。
直実と季重は、義経隊は馬で一ノ谷背後の崖を一斉に駆け下りるので、
先陣はねらえないと合戦前夜、功名を競ってひそかに隊を抜け出し、
鵯越の蛙岩から白川、多井畑、下畑を経て塩屋付近に出て、
未明、西の木戸口に現れたのです。
先陣の功名をあげようと、本隊を抜け、本隊よりも先に
単独で攻撃を仕掛けることを「抜け駆け」といいます。
出世は手柄に比例するため功名争いは熾烈でした。
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平氏搦手が陣取る一の谷は、狭い谷あいの地形で前面が海、
西北は絶壁が迫っている場所でした。 この攻撃が難しい地に
城郭を構えていた平氏は、防備体制に自信を持ち、
敵が現れるはずがない山頂部には兵を配備していませんでした。
義経は70騎の精鋭を従え徹夜の行軍で、7日午前8時頃、鉄拐山を東に越え
鉢伏山・礒の途(鉄拐山から鉢伏山へと続く尾根)に到着し、
一ノ谷の城郭を眼下に見下ろす崖の上に出ました。
東西の木戸(生田の森・一ノ谷)で午前6時に開始された合戦は、
今やたけなわ、戦況を見守ると一進一退の膠着状態です。
義経みずから先頭にたち、 躊躇する坂東武者らを叱咤し
険峻な崖から中段の平坦地まで一気に駆け下りました。
そこから先はさらに険しく垂直の壁のような崖がそそり立っています。
さすがの義経も怯みましたが、三浦の佐原義連が進み出て
「このような崖は我が故郷では馬場のようなもの」と言うなり駆け下りました。
これを見て勇気を得た武者らが続き、鬨の声を挙げました。
これが今に「鵯越の逆落とし」として
語り伝えられている義経の奇襲戦法です。
こうして一ノ谷合戦の命運が決まったとされています。
防備が手薄な城郭の背後を突かれた平氏軍は大混乱に陥り、
一門の多くを失い海上を屋島へと敗走しました。
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義経の奇襲によって一ノ谷の陣が大混乱に陥っていたころ、鵯越の麓、山の手陣の
木戸口にも義経隊から分かれた摂津源氏の流れを汲む多田行綱軍が攻め寄せ、
越前三位通盛・能登守教経・越中前司盛俊らを攻め落としていました。
義経の鵯越の逆落し(須磨浦公園)
鵯越から一ノ谷へ義経進軍(藍那の辻・相談が辻・義経馬つなぎの松跡・蛙岩)
『アクセス』
「義経腰かけの松」兵庫県神戸市須磨区多井畑
JR山陽電車「須磨駅」または、神戸市営地下鉄「妙法寺駅」
神戸市営地下鉄「名谷(みょうだに)駅」から
市バス71(一部)・72・74・88系統「多井畑厄神」下車、西南へ徒歩約3分
『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略」角川選書、平成17年
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年
神戸史談会「源平と神戸」神戸新聞出版センター、昭和56年
「兵庫県の地名」平凡社、1989年
都市研究会編「地図と地形で楽しむ 神戸歴史散歩」洋泉社、2018年