平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




以仁王の御所である高倉宮は、三条大路北・高倉小路西の一町を占めていました。
それは、現在の京都文化博物館・中央郵便局・教育相談センターなどの敷地にあたります。
三条通りに面して御所の総門があり、高倉通りには小門がありました。

高倉宮跡にたつ京都文化博物館。

こども相談センターパトナの前に「高倉宮跡」の碑がたっています。

後白河法皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)は、
三条高倉に住んでいたので、またの名を高倉宮といいます。
母の成子は藤原季成の娘で、後白河法皇の寵愛を受け、
王の他にも守覚法親王や式子内親王を生んでいます。
30歳になる以仁王は皇位継承者の位置にありながら、平家の血を引く
弟の高倉天皇が皇位につき
才能に恵まれながらも
表舞台に立つことなくひっそりと暮らしていました。
『平家物語』によると、源三位頼政が以仁王に謀反をもちかけたとしています。
頼政は
高倉宮の御所を訪ね鳥羽殿に幽閉されている父君の
後白河法皇の不遇や平家一門の横暴を訴え、
平家を滅ぼして
宮が皇位につくことを勧めます。
以仁王が令旨を出せば全国にいる源氏が
決起し馳せ参じますと次々諸国の源氏の名を50人も数えあげます。
この誘いに以仁王は迷いますが、以前優れた人相見と評判の高い
少納言維長が「王は皇位につく人相をしておられます。」と

見立てたことを思い出しついに決心します。

以仁王が諸国源氏に発した令旨は、『吾妻鏡』や『延慶本平家物語』
『広本系平家物語』に収められています。公文書としての令旨の形式に不備があり、
また諸史料に見える令旨の文言に異同があるため、古くから問題視されてきました。
しかし当時の公家の日記などから、平氏打倒を命じる以仁王の命令文書が諸国の
武士や寺社に伝達され、源平争乱の引き金になったことは間違いありません。

令旨の内容は、清盛が後白河院を幽閉して院政を停止し、国政を独占した行為を
激しく非難し、清盛を「謀反人」と決めつけ、源氏の武力によってこれを罰せよ。と
いうものでした。『広本系平家物語』には、以仁王は自らを国家権力者のための経典
「金光明最勝王経」に因んで「最勝親王勅宣」と王が自ら親王と名乗っていますが、
『吾妻鏡』には「最勝王」という表現がされています。


令旨の使いに選ばれたのは保元の乱・平治の乱で父や兄義朝を殺され、
新宮に潜んでいた為義の十男・新宮十郎(源義盛)でした。
八条院の蔵人という役職を賜り、名も「新宮十郎行家」と改め、
諸国の源氏のもとへと旅立ちました。
『吾妻鏡』治承四年(1180)四月二十七日条によると、「行家が持った以仁王の
令旨が今日伊豆国の北条館に到着した。源頼朝は水干に着替え、舅
北条時政を呼び
石清水八幡宮
を遙拝した後、令旨を謹んで開いて見た。」とあります。


八条院は父・鳥羽天皇、母・美福門院から膨大な荘園を譲られ、それは東国はじめ
諸国に総計約二百数十ヶ所にあったといわれ、
上杉和彦氏は
「富裕な八条院のもとには多くの文人、歌人が集まり、文化サロンを形成し、歌人の頼政も
八条院に出入りし、和歌を通じて以仁王との親交を深め、請われるまま反乱の計画に
参画していったとの推測が成り立つ。」(『源平の争乱』)と述べておられます。

『平家物語』には、頼政が不遇な宮に平家打倒を勧めたとありますが、
実は八条院・以仁王側から頼政を誘ったのだというのです。

平氏政権に没収された以仁王の寺領。
城興寺(以仁王)
 『アクセス』

「高倉宮御所跡」中京区東洞院姉小路通下ル曇華院(どんげいん)前町
「京都市教育相談総合センター・こども相談センターパトナ」(元初音中学校)西口傍
地下鉄「烏丸御池」下車徒歩5分
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 

 

 
 
 
 
 


コメント ( 2 ) | Trackback (  )


« 二代后多子の... 以仁王謀反(三... »
 
コメント
 
 
 
ようやく高倉宮の主が分かりました! (yukariko)
2008-06-17 20:16:10
「高倉宮趾碑」の石碑は京都文化博物館に行く時目にしているのですが、京都大丸横の高倉通に建っていた屋敷だから高倉宮なのかしら?思い当たる宮様がないし??と思っていました。

横に立つ「明治天皇行幸所…」の石碑があったので、そちらの関連としか思いつきませんでした。
具体的な場所が分かると、その人物が生きて動き出すような気がしますね。

次回三条烏丸に行った時は心して見ますね。
 
 
 
コメントありがとうございました! (sakura)
2008-06-19 13:12:13
以仁王は三条高倉邸に住んでいたので、三条宮・高倉宮とも呼ばれ、
御所趾は、現在の京都文化博物館、中京郵便局、子供相談センターパトナ(元初音中学校)に
あたりますが、高倉宮と以仁王とを結びつける人は少ないでしょう。

駒札でも立てて一言説明してほしいところです。

この後、謀反が平家方に分かり以仁王が三井寺に逃げ、信連が御所の総門(三条大路)、小門(高倉小路)を開いて
役人を待ち受ける場面等を京都文化博物館辺に立って
イメージすると
本当に物語も人物も活き活きと動き出すような気がします。

 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。