平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




上沢駅から北に向かい神港高校を過ぎた辺に会下山(えげやま)公園があります。

この公園の東側に沿ってさらに北へ進むと善光寺があります。






この寺の境内には、近くの草むらにあったという

平業盛(なりもり)の塚が祀られています。



17歳で戦死した業盛は、門脇殿と呼ばれた教盛(のりもり)の三男で、

通盛、教経の弟にあたります。



一ノ谷の戦いで、業盛は兄と共に山ノ手の陣を守っていましたが、
義経方の多田行綱勢により、味方は大混乱に陥り大敗します。
兄や郎党らにはぐれた業盛は、緋縅(ひおどし)の鎧を着て、
連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬に乗り、海上の船に向かって逃れる途中、
ただ一騎で渚に佇んでいたところに常陸国(茨城県)の住人
泥屋(ひじや)四郎吉安・五郎の兄弟が、業盛めがけて突進してきました。

兄の泥屋(土屋)四郎に組みかかられ、馬から落ちて上になり下になりして
激しくもみ合ううちに、古井戸に落ちてしまい、
上になった業盛が四郎の首を搔こうとした時、弟の五郎が現れ
兄を討たせまいと業盛の兜のしころにとりついて引き離そうとします。
十七歳とはいえ、大力の業盛が頭を力一杯ふると、甲の緒が切れ
五郎は甲を持ったまま二ひろ(3・6m)も投げ飛ばされてしまいました。
しかし五郎はこれにひるまず、すぐに起き上がり業盛の首を取り、
兄を井戸から引き上げました。
業盛の怪力に人々は感心し、その死を惜しまぬ者はいませんでした。


業盛が乗っていた連銭葦毛の馬は、
葦毛に灰色の銭形の斑文がまじっているもので珍しい毛並の馬です。

兜は頭部を守るための鉢と後頭部や首周りを守るため
鉢の下部から垂らした錣(しころ)から成り、
錣は両端を顔の左右の辺りで後方に反らし、これを吹返しと呼びます。




神田兵右衛門は、新川運河の開削工事、十数か所の学校設立、
神戸商工会議所設立など、
数々の業績を残した人物として知られています。

神戸港は、奈良時代には「大輪田泊」と称され、平安時代末に
平清盛が人口島、経が島を造り、この港の基礎を築きました。
その後、大輪田泊は兵庫の津と呼ばれるようになり栄えましたが、
この港には船の避難する場所がなく、また西から湾内に入る船は、
波の荒い和田岬を迂回しなければならないため、
大変苦労を強いられていました。そこで明治時代の始めに
神田兵右衛門が巨額の私財を投じて新川運河を完成させました。

『アクセス』
「善光寺神戸別院」 兵庫県神戸市兵庫区会下山町2丁目18-13
 神戸市営地下鉄「上沢駅」より徒歩約15分

『参考資料』
「新定源平盛衰記」(5)新人物往来社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター 
杜山悠「神戸歴史散歩」創元社 「新訂官職要解」講談社学術文庫

別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 
「歴史を読みなおす」(武士とは何であろうか)朝日新聞社

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
Unknown (yukariko)
2013-10-18 00:48:52
門脇中納言教盛は、父忠盛の巧みな宮廷工作による清盛の栄達を目の当たりにし、平氏の隆盛を実感した人であり、同時にまた、あっという間にやってきた一族の衰運を大事な息子達の戦死やその妻の入水という悲惨な運命をわが身に受けて、これから先を生き続けるにはあまりにも辛い人生を送る羽目になりましたね。

年老いた身には若い息子たちに先に行かれる悲しさがひしひしと感じられ、さぞかし世の辛さを身に染みて感じた事でしょう。

 
 
 
そうですね (sakura)
2013-10-18 17:21:21
教盛は平氏政権での栄達に伴い中納言にまで出世し、
門脇宰相・門脇中納言などと呼ばれましたが、
娘婿が鹿ケ谷事件の首謀者藤原成親の子息成経であったため、
罪に問われた娘婿の助命に奔走し、兄の清盛に自身の出家まで口にして
やっと許され、それから中宮徳子の懐妊を機に、鬼界島に流された
娘婿の恩赦を願い出てそれが認められるまでは苦労しました。
清盛没後は一門の長老として平宗盛を補佐する役目を担っていたようです。
一ノ谷の戦いで嫡男の通盛を始め子息を失った時、
60歳前後の年齢だったと云われていますから、
彼の身辺は随分と心細いものになったことでしょう。
合戦のもたらした親の悲しみが語られていますね。
 
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