平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




小松寺門前左手の道は本堂近くにある駐車場へと続いています。



本堂前の桜は、元禄6年(1693)67歳当時の光圀手植の桜の実生と伝えられ、
3月下旬から4月上旬にかけて見ごろを迎えます。


本堂前の大きく枝を広げたしだれ桜の下にたつ「徳川光圀公お手植桜跡」の塔







寺宝の浮彫如意輪観音像は、平安時代、貴人の念持仏として
尊ばれた白檀(びゃくだん)を材とし、その板に観音を浮彫にし、
表面は木肌のままでなく、一面に漆様のものをひいています。 

制作年代については、平安時代後期説と中国唐時代の遺品とする説がありますが、
像の精巧な技法、厳しい表情、その周辺の文様および材質などから
中国晩唐時代の作で、日宋貿易による渡来品との説が有力視されています。
保存状態は良いのですが、数珠を持つ指先や数珠、
如意宝珠(にょいほうじゅ)を持つ手の指先などが失われています。

平重盛の念持仏といい、いかにもそれにふさわしい風格を表し、
掌にすっぽり収まる大きさです。
裏面には貞享4年(1687)の徳川光圀と陰刻した修理銘があります。 

浮彫如意輪観音像開帳 1月1日 
詳細は城里町産業振興課にお問い合わせください。029-288-3111 (内線381)

もと白雲山頂にあった観音堂は、水戸光圀によって現在地に移されました。
観音堂の壁画には唐獅子が描かれ、内陣の来迎柱には、登龍の彫刻が施されています。

説明板にある「柿葺き(こけらぶき)」は、木材の薄板を積み重ねて施工する葺き方です。

観音堂は本堂からこの渡り廊下を使って行き来できます。

『平家物語』(巻7)によると、平貞能は平家一門都落ちの際、重盛の墓に詣で
「源氏の駒のひずめにかけさせまい」と墓を掘り起こし、あたりの土は鴨川に流し、
遺骨は高野山に納めさせ、東国へ落ちていったとのことです。
ところが重盛の遺骨は早くから高野山に納められ、供養したと記す史料
(高野山文書、養和元年4月25日付『僧某申状案』)があり、また実際は
貞能は都での決戦を宗盛に進言するもいれられず、一旦は都に戻りましたが、
すぐに一門を追って西国に下ったので、この記述には虚構があります。

貞能が掘り起こした重盛の墓は、広本系によれば九条河原の
法性寺(ほうしょうじ)にあったということです。法性寺は九条大路より
南の地(現、本町通りから東福寺境内、伏見区稲荷山)といわれ、
西は鴨川、東は東山山麓という広大な地域と推測されています。

この寺は左大臣藤原忠平が建立したもので、毘盧遮那仏を安置した本堂はじめ
多くの堂宇が建てられ、代々藤原氏の氏寺として栄えました。
その広大な寺域には、関白忠通も別邸を構え、清盛も父の供養の一寺を造営していたという。
(『新潮日本古典集成』水原一氏頭注「法性寺の平家の墓」)

忠通の死後、その跡を継いで関白・氏の長者となり、その遺領を継承したのが
盛子(清盛の娘)の夫藤原基実(もとざね)です。
しかし基実は盛子との間に子を儲ける前に24歳で亡くなり、
摂政の地位は基実の弟松殿基房が継ぎ、盛子が摂関家領の大部分を相続しました。

これは基実の遺児基通(もとみち)が幼かったため、この子が成人するまで
預かるという名目で盛子に相続させ、清盛がこれを支配・管理しました。
さらに清盛は摂関家との血縁関係を重視し、基通が成長すると
娘完子(さだこ)を正妻に据えました。こうして清盛は盛子を介して
摂関家を取り込むことに成功し、平家一門がその強力な後ろ盾となりました。

盛子は憲仁親王(高倉天皇)の養母にもなり、仁安2年(1167)に憲仁が即位し、
高倉天皇となるとその准母となります。ところが清盛に思わぬ不幸が襲いかかります。
娘の盛子が闘病のすえ治承3年(1179)6月に24歳の若さで他界し、
次いで同年8月には、嫡男の重盛までもが42歳で没しました。

清盛は盛子の死後、彼女が伝領していた摂関家領を高倉天皇領とすることで、
所領の支配を継続しようとします。これに対して松殿基房は不満を持ち、
鹿ケ谷事件以来、平家に反感を抱いていた後白河院もこれに介入し阻止しようとします。
盛子が相続していた摂関家領のすべてを取り上げただけでなく、
重盛没後、維盛が受け継いでいた越前の知行国を清盛に断ることもなく
没収してしまったのです。このような動きが治承3年(1179)11月の
清盛が院を鳥羽殿(鳥羽離宮)に幽閉するという暴挙につながっていきます。
(治承3年の清盛クーデター)
平重盛の墓(小松寺1)  
重盛創建の法楽寺  大阪市の法楽寺(1)源平両氏の菩提を弔った寺  
平重盛・清盛の墓(磐田市の連城寺)  
『参考資料』
角田文衛「平家後抄(上)」講談社学術文庫、2001年
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年
「京都市の地名」平凡社、1987年 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年
「茨城県大百科事典」茨城新聞社、1981年 元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書、平成24年
高橋昌明編「平清盛 王朝への挑戦」平凡社、2011年 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館、昭和63年

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
平貞能の働きで重盛の墓が残ったとは! (yukariko)
2017-04-18 21:31:07
主人の墓を掘り起こし、髙野山に分骨して残りの骨を持ち重盛夫人・得律禅尼を伴って茨城に下った貞能。
彼の働きであの清盛の墓のありかさえいまだに定かでない変転の時代、そして続く源氏の世で平氏一族郎党は隠れて生きなければならなかった時、都からははるか離れた場所とはいえ、重盛やその夫人を祀る立派な伽藍やお墓を建立して、一族の心のよりどころにしたとはすばらしい事ですね。
そのお寺の歴史があればこそ、のちの時代に光圀の寄進による再建があったのでしょう。
 
 
 
続きです (sakura)
2017-04-19 15:10:38
水戸光圀の寄進は、お書きくださったようにこの寺の歴史、
如意輪観音像の価値も十分ご存知だったこそです。

小松寺の寺伝によると、貞能は重盛の妹とその夫人を伴って
東国に落ちたとありますが、当時、捕えられても
女性の命は助けられますから、二人の女性の東国落ちは、
重盛夫人が貞能の姉であればありうる話ですが、
姉であったかどうかは否定も肯定もできませんし、
重盛の妹が何の縁もない土地へ行くということはちょっと考えにくいです。

それに重盛の妹といえば清盛の娘にあたるはずですが、
この女性は史実に確認できません。
清盛の娘完子も一門都落ちに夫藤原基通とともにお供しています。
基通はその途中、七条大路辺で飛ぶように戻りましたが、
彼女は壇ノ浦で捕えられた後、出家したようです。

脚色があるのは、昔、塩原は日光、那須などを結ぶ
山伏の道筋にあたっていたことから、貞能が重盛、
平家一門を弔う寺を開いたことをもとにして、
なんらかのかたちで山伏や高野聖が関与した伝承と考えられます。
 
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