コメント
小松寺
(
揚羽蝶
)
2017-04-16 11:47:46
重盛公のお墓が茨城県にあるなんて不思議な気がしますが、平貞能の尽力によるものだったのですね。
寺宝の重盛公の念持仏が重要文化財に指定されたり、小松寺が水戸藩主にも大切にされて良かったです。
意外ですね
(
sakura
)
2017-04-17 08:39:18
ご存知のようにご重盛は父に先立って亡くなっているので、
清盛は息子のために京都にさぞ立派な墓をたてたと思われます。
小松寺は宥宝が水戸光圀の帰依を受けて再建したそうです。
その後、この寺は荒れるに任せていた時期もあったようです。
寺宝の如意輪観音像は、明治44年、重要文化財に指定されています。
栄枯盛衰は世の習い…とはいえ。
(
yukariko
)
2017-04-18 21:45:47
清盛の京での終焉の地は分かっていても埋葬された「経の島」に遺骨はなく「播磨国山田の法華堂」も実際はどこかわからないとの記事を以前に読ませて頂きました。
重盛の墓も時代が変わってからは都ではなく、一門ともども高野山にあるのだろうと勝手に思っていたのですが、思いがけない所ながら、立派に供養されていたのですね。
話が複雑になって申し訳ないのですが
(
sakura
)
2017-04-19 14:52:44
小松寺縁起によると、「平重盛が死去した翌年、遺言により
家臣であった平貞能が主君の遺骨とともに、重盛夫人・妹らを伴って
高野山に逃れ出家、小松坊以典と名をかえ、北陸をまわって下野国塩原に隠れた。
そこで領主宇都宮朝綱の保護に預かり、頼朝に伝えられて隠れ住むことを許された。
その後、元平家の一族であった大掾氏を頼り常陸に入り、
大掾義幹の案内で白雲山に重盛の遺骨を埋葬し、
宝篋印塔を建て、伽藍を建立し小松寺と名づけた。」とあり、
史実と異なる箇所がいくつか見られます。
重盛の墓は法性寺にあったとも、六波羅にあったとも、
また近年、法住寺殿跡地(東山区)で発掘された武将の墓を
重盛の墓と見る説も出されています。
法性寺は平家滅亡後、平家の残党がこの寺の一の橋に立てこもり、
辺り一帯戦場となりました。また六波羅はご存知のように
都落ちの際、一門の手でことごとく焼き払われています。
清盛終焉推定地は、この法性寺のすぐ北側にあたりますね。
高野山に送られたのが分骨であれば、京都の墓には
重盛の遺骨の一部が埋葬されていたはずですから、
都落ちの時に貞能が掘り起こして所持し、
城里町の小松寺に埋葬したということは十分考えられます。
しかし京都の重盛の墓は拝み墓であったかもしれません。
長くなります。
続きは次の記事のコメント欄に書かせていただきます。
小松寺、是非お詣りに行きます
(
Unknown
)
2022-03-22 10:05:41
先日92歳で亡くなった母、旧姓小松、から母のお爺さんの話をよく聞いており、ご先祖を辿っていくうちに平重盛公の末裔の可能性まで出て来ました! 確かにご先祖方の名前に「平」へい、が付く名前の人も多い…。ロマンあふれるので是非是非、今年はお詣り行きたいと思います。
コメントを投稿する
名前
タイトル
URL
コメント
※絵文字はjavascriptが有効な環境でのみご利用いただけます。
▼ 絵文字を表示
携帯絵文字
リスト1
リスト2
リスト3
リスト4
リスト5
ユーザー作品
▲ 閉じる
コメント利用規約
に同意の上コメント投稿を行ってください。
コメント利用規約に同意する
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
寺宝の重盛公の念持仏が重要文化財に指定されたり、小松寺が水戸藩主にも大切にされて良かったです。
清盛は息子のために京都にさぞ立派な墓をたてたと思われます。
小松寺は宥宝が水戸光圀の帰依を受けて再建したそうです。
その後、この寺は荒れるに任せていた時期もあったようです。
寺宝の如意輪観音像は、明治44年、重要文化財に指定されています。
重盛の墓も時代が変わってからは都ではなく、一門ともども高野山にあるのだろうと勝手に思っていたのですが、思いがけない所ながら、立派に供養されていたのですね。
家臣であった平貞能が主君の遺骨とともに、重盛夫人・妹らを伴って
高野山に逃れ出家、小松坊以典と名をかえ、北陸をまわって下野国塩原に隠れた。
そこで領主宇都宮朝綱の保護に預かり、頼朝に伝えられて隠れ住むことを許された。
その後、元平家の一族であった大掾氏を頼り常陸に入り、
大掾義幹の案内で白雲山に重盛の遺骨を埋葬し、
宝篋印塔を建て、伽藍を建立し小松寺と名づけた。」とあり、
史実と異なる箇所がいくつか見られます。
重盛の墓は法性寺にあったとも、六波羅にあったとも、
また近年、法住寺殿跡地(東山区)で発掘された武将の墓を
重盛の墓と見る説も出されています。
法性寺は平家滅亡後、平家の残党がこの寺の一の橋に立てこもり、
辺り一帯戦場となりました。また六波羅はご存知のように
都落ちの際、一門の手でことごとく焼き払われています。
清盛終焉推定地は、この法性寺のすぐ北側にあたりますね。
高野山に送られたのが分骨であれば、京都の墓には
重盛の遺骨の一部が埋葬されていたはずですから、
都落ちの時に貞能が掘り起こして所持し、
城里町の小松寺に埋葬したということは十分考えられます。
しかし京都の重盛の墓は拝み墓であったかもしれません。
長くなります。
続きは次の記事のコメント欄に書かせていただきます。