平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



新中納言知盛(清盛の四男)が砦を構えた長門(山口県)の
彦島(下関市彦島)は、海上交通の要地で
『平家物語』には、引島(ひくじま)と記されています。

関門海峡に浮かぶ周囲25キロ余の島ですが、島といっても、
今は橋で結ばれているので車でも簡単にアクセスできます。

北九州市門司区大里海岸緑地帯より平知盛が砦を構えた彦島遠望。





知盛は屋島合戦の際、平家本陣を離れて彦島に砦を構えました。
一ノ谷で惨敗したものの、源氏は有力な水軍を持たないので、
瀬戸内海の東と西の要衝を掌握する限り、
平氏に勝機はあると知盛は踏んでいたのです。

しかし、宗盛(清盛の三男)を総大将とする平家軍は、
屋島合戦でも敗れ海上に逃れました。

義経勢はわずか150余騎でしたが、大軍に見せるため
民家に火をかけ敵陣に突入しました。背後からの奇襲攻撃を受けた
平家軍は、巻き上がる炎に驚いて海岸へ走ったのです。
そしてさしたる反撃もしないまま、知盛と合流しようと
瀬戸内海を西に向かい、彦島へ落ちて行きました。

(巻8・太宰府落)には、「長門国は新中納言知盛卿の国であった 。
国司代理(目代)は紀伊刑部大夫通資(ぎょうぶたいふみちすけ)と
いう者であった。」と書かれていますが、
知盛には長門守の経歴は見えない。長門は治承元年(1177)に
清盛が知行国守になっているので或いは国務を代行するなどのことが
あったのであろうか。」とあります。(『平家物語(中)』p273頭注)


彦島の杉田丘陵には、平清盛の塚があり、知盛が築いた根緒(ねお)城は、
この丘陵にあったのではないかといわれています。

JR下関から江の浦町に架かる関彦橋(かんげんばし)を渡り、
杉田バス停で下車すると清盛塚の案内板が見えます。
これに従って住宅街の狭い坂道を上っていくと清盛塚があります。

清盛塚に近い杉田の住宅街の中には、
「彦島杉田岩刻画(がんこくが)」があります。
岩刻画とは、岩に刻まれた古代の文字や絵などのことです。

知盛は清盛の霊を慰めるため、彦島に無銘の碑を建てたといわれています。

所々に建っている案内板に従って丘の上を目指します。



左側は無銘の石碑、右側の自然石には「清盛塚」と刻まれています。

清盛塚は、福浦湾を望む丘の上にあり、
地元の人々によって大切に守られています。

傍には「地鎮神」と刻んだ石碑も建っています。

清盛塚
寿永三年(1183)中納言知盛は亡き父清盛の遺骨を携えて
この彦島に入り平家最後の砦、根緒城の築城に取りかかり砦と定めた
この丘陵の小高い場所に納骨して墓碑を建立した。
翌年四年三月二十四日壇ノ浦の合戦に出陣したが、
再興の夢ははかなくも渦潮の中に消え失せた。
墓碑は永年無銘のまゝ荒地に放置されていたが昭和四年
土着の歴史に詳しい人達の手によって清盛塚と刻まれた。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
昭和六十二年十月
江の浦町四丁目自治会有志による聖城整備によせて
  郷土史家 澤 忠宏 記
『アクセス』「清盛塚」山口県下関市彦島江の浦町
JR「下関」駅からサンデンバス8番乗り場、約20分
 「杉田」バス停下車徒歩約15分

『参考資料』
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課 
新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社、昭和60年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(中巻)」角川書店、昭和42年

 

 

 

 

 



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