平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



住吉大社前に広がる住吉(すみのえ)の津は、古くから外交や
交易の港として栄えましたが、江戸時代の半ばより
大和川の付替えなどがあり、大量の土砂が流入して堆積し、
その後、埋立開発が急速に進み、海岸線は西に遠ざかってしまいました。

住吉公園は住吉大社の旧境内で、公園を東西に走る
「潮掛け道」は大社の表参道でした。

住吉公園

汐掛道東から

鎌倉時代の元寇の時は、西大寺の叡尊が再三当大社に参詣して
異敵降伏の祈祷を行い、また
住吉公園の前に広がっていた
住吉の浜では、住吉大社による住吉大明神への
大規模な「蒙古調伏の祈祷」が修せられました。



汐掛道の記
ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所で、
社前から松原が続き、
すぐに出見(いでみ)の浜に出る名勝の地であった。
 松原を東西に貫く道は大社の参道で、浜で浄めた神輿が通るため、
「汐掛道」と称され、沿道の燈籠は代々住友家当主の寄進になり、
遠近の参詣や行楽の人々で賑わった。
 古くから白砂青松の
歌枕の地として知られ、近世には多くの文人・俳人がここを往来し、
大阪文芸の拠点の一つとなっていた。 財団法人 住吉名勝保存会

汐掛道西から

江戸時代には、徳川将軍家はじめ各大名の尊崇も篤く、西国諸大名は
参勤交代ごとに住吉大社で参拝するのが慣例となっていました。
また文人墨客の参詣も多く、芭蕉は当社の「宝の市」に詣でて
この祭の名物である「升」を購入し、
♪升買うて 分別かはる 月見かな と詠んでいます。





元禄7年(1694)9月、芭蕉は大坂で派閥争いをしていた門人、
酒堂(しゅどう)と之堂(しどう)の仲を仲裁するために
故郷の伊賀上野から奈良を経て大阪に入り、同月13日、住吉近くの
長谷川畦止(けいし)亭で月見の句会を予定していました。
その日は住吉大社で宝の市(升の市)が立って賑わう日でしたから、
この市に出かけ名物の升を買っています。去る9日来阪以来
何となく気分のすぐれなかった芭蕉は、その夜急に悪寒を覚え、
句会をすっぽかして早々に帰ってしまいました。
翌日にはすっかり快復して、芭蕉の不参加で延期されていた
会に出かけて詠んだ挨拶の発句です。
参加者一同が不参加の理由(気が変わったのではない)を
知っていることを承知の上で正面切って謝らず、
それを風流に詠んだのがこの句であると云われています。
芭蕉はその後間もなく病に伏し、大阪市内南御堂付近で亡くなったのでした。

 毎年10月17日に行われる宝之市神事(たからのいちしんじ)は
御神田で育った稲穂を刈り取り、五穀と共に神様にお供えする行事です。
昔は9月13日に行われ、黄金の桝(ます)を作り新穀を奉り、
農家で使用する升を売っていたので升の市ともよばれ、
相撲十番の神事が盛大に行われたので相撲会(すもうえ)ともいいました。
松尾芭蕉終焉の地(南御堂) 



古くは住吉津の河口部の入江に細井(細江)川が注ぎ、
入江は住吉(すみのえ)の細江とよばれ、住吉社の高燈籠が立ち、
風光明媚な海岸として知られていました。入江付近の浜を
出見(いでみ)の浜といい、『万葉集』にも詠まれています。
今、昔の名残を感じさせるものはありませんが、住吉大社参道と
国道が交差する角に立つ高灯籠がわずかに往時の港を偲ばせます。

国道26号に面して立つ住吉高燈籠は、住吉大社の灯篭で、
鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされています。
現在の高灯篭は1974年に場所を移して復元されたものであり、
元は現在の位置より200mほど西側にありました。
その後埋め立てが進み高燈篭も海から遠ざかり、昭和49年に
現在地に石垣積みを移してコンクリート造で再建されました。

内部は資料館になっています。 開館時間 第1・3日曜日 10:00~16:00

高燈籠復元の記
昔このあたりが美しい白砂青松の海浜であったころ 海上守護の神
 住吉の御社にいつの頃にか献燈のため建てられた高燈篭は
 数ある燈篭の中で最高最大のものであり その光は海路を遥かに照らし
 船人の目当てとなって燈台の役割を果たし 長峡の浦の景観を添えていた
寛永年年間の摂津名所図会に「高燈篭出見の浜にあり 
夜行の船の極とす 闇夜に方向失ふ時
◆中略◆
この燈篭の灯殊に煌々と光鮮也とぞ」と見えるが 
往時の面影が偲ばれる 旧高燈篭はここより二百メートル西にあって
 明治の末年迄度々大修理が行われた
戦後台風のため
木造の上部は解体され 更に昭和四十七年道路拡張のため
 基壇石積も全部撤去されたが住吉の名勝として永く府民に親しまれた
この文化遺産を後世に伝えるため 住吉名勝保存会を結成し
 その復元再建を計り 財団法人日本船舶振興会 
その他地元会社有志の寄附を仰ぎ 大阪府 市の援助を得て
 このゆかり深き住吉公園の地に建設されたのである
昭和四十九年十月吉日  財団法人 住吉名勝保存会



 高燈篭より二百メートルほど西の民家前(
住之江区浜口西1)に
「住吉高灯籠跡」の碑が立っています。



「住吉高灯籠跡」碑のすぐ近くに「従是北四十五間」の碑があります。
側面には「剣先船濱口村 立葭場請所」
「天保三年辰十一月」と彫られています。
濱口村の名の由来はかつて海浜に近かったことによるといわれています。

剣先船は、江戸時代の大阪の川船のひとつで、荷物運搬船として活躍した。
宝暦二年(1752年)の調べでは、三百隻ほど運航していたと伝えられている。
住之江でも大和川や十三間川の開削と同時に運航がはじめられた。
船首が刀のようにとがっていたことから剣先船と呼ばれたという。
剣先船の説明は、大阪市HPより転載しました。)
大阪市住之江区浜口西1-7
市バス「住吉公園」下車西約300m・南海本線「住吉大社」下車西600m


住友灯籠は江戸時代から昭和初期にかけて、
住友家の歴代当主によって奉献された灯籠です。
この灯籠は海辺に続く道「汐掛の道」に建てられ、海上安全と
家業の繁栄を願って寄進されたといわれています。

住友燈籠の記
古くからこの地を長狭(ながさ)と称し、海辺へ続くこの道は
汐掛道と呼ばれていた
 ここに並ぶ十四基の燈籠を始め、
公園内の住友家の燈籠は、江戸時代から昭和初年にかけ、
 住吉大社正面参道である汐掛道に添って
代々奉献されてきたものである。
 江戸時代の
大阪は日本における銅精錬・銅貿易の中心地であり、
その中核をなしたのが住友家であった。
 銅は主に伊予(愛媛県)の別子銅山から海路運ばれ、
大阪で精錬され、日本の経済を支えていた。
この燈籠も海上安全と家業の繁栄を願って寄進されたが、
長い年月を経て、一部は移築され、また周辺の
道路事情も変わったため、地元住民の意向を受け、
新たな考証に基づきここに年代順に移転再配置した
天下の台所「大坂」を偲ぶ貴重な歴史遺産として、
今後とも長く守り伝えて行かなければならない。
  平成六年六月  財団法人 住吉名勝保存会

『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年
「平成22年 住吉暦」住吉大社、平成21年
大谷篤蔵「芭蕉晩年の孤愁」角川学芸出版、平成21年
『アクセス』
「住吉高燈籠」 大阪府大阪市住之江区浜口西1丁目1
南海本線「住吉大社駅」下車徒歩約4分
住友燈籠」 大阪府大阪市住之江区浜口西1丁目1
南海本線「住吉大社駅」下車すぐ



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