平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






住吉大社前を通り抜ける昔懐かしいチンチン電車 (阪堺電気軌道)

住吉大社は古来、海上安全の神として信仰が篤く
王権と密接に関わってきた格式高い摂津国一宮です。

住吉は現在の大阪市南部の住吉区一帯で、
平安時代以前は「すみのえ」と読んでいました。

住吉津(すみのえつ)は、住吉大社の門前に広がる港で早くから
天然の良港として、外港としての機能を果たしていましたが、
干潮時には船底がついてしまうという難点がありました。
そのため依網池(よさみのいけ)から掘割水路で水を引いていました。
この池は近世の大和川の付替えによって大幅に縮小しましたが、
かつては10万坪もあったという。

住吉大社の南を流れる細江(細井)川の河口には、漁船や
外交船が発着する「住吉細江」という港津があったと推定され、
この沿岸一帯の入江には、同様の港がいくつかあり
外交や交易の場として栄えていたと考えられています。
遣唐使船は住吉大社で海上安全の祈願を行い、住吉三神を
船の舳先に祀り、住吉津(住吉細江)から出航したとされています。

住吉大社は海の神、航海の神として広く崇拝され、
津守氏一族が明治に至るまで代々宮司を勤め、
遣唐使船にも神主として乗りこみました。
当時は航海技術が高くなかっただけに、派遣された船の三分の一が
遭難するという
命がけの船旅の中で精神的な支えが必要だったようです。
「津守」の姓は田裳見宿禰(たもみのすくね)より
住吉の津を守るの意から賜ったという。

『万葉集』には、住吉という地名が41首も詠われています。
天平5年(733)の遣唐使に贈られた長歌に
 「住吉(すみのえ)の御津(みつ)に船乗り」とあり、
多治比(たじひ)広成を大使とする遣唐使が今まさに
住吉津から出航しようとしていることが『万葉集』に見えます。

♪そらみつ大和の国 青丹よし平城(なら)の都ゆ
 おし照る難波に下り
 住吉の御津に船乗り 直渡(ただわた)り
 日の入る国に 遣(つか)はさる わが背の君を(後略)
 作者未詳 巻19・4245
 (大和の国奈良の都から難波に下り、住吉の御津で船に乗って
まっすぐ海を渡り、
日の入る国唐に赴くよう命じられた私の大切な人よ)

池に架かる反り橋(太鼓橋)の左側に
埴輪古代船をかたどった万葉歌碑がたっています。







♪住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と
 行(ゆ)くとも 来(く)とも  船は早けむ 
 多治比真人土作(たぢひのまひとはにし) 巻19・4243 

(住吉の神のお告げによると、行きも帰りも
船はすいすいと進むでしょうとのことです。)
住吉神社に幣帛を奉り、航海の安全を祈願したところ、
つつがなく旅を終えるとの神託を受けたというのです。

 ♪草枕 旅行く君と知らませば 岸の黄土に にほはさましを
 清江娘子(すみのえのをとめ) 巻1・69

 (あなたが旅行くお方と知っておりましたならば、
記念にこの岸の黄土で
 お召し物を彩ってさしあげましたのに。)
岸の黄土(はにふ)は、住吉の台地から採れる黄土のことで
染料に用いられ、
衣を黄金色に美しく染め上げました。

万葉時代の住吉地形には、万葉歌に詠まれた「しはつ道・得名津(えなつ)・
遠里小野(おりおの)・粉浜(こはま)・敷津の浦・出見の浜・
玉出・あられ松原・浅沢小野など」の地名が記されています。

住吉津の周辺には、得名津や敷津などの港が存在し、現在の
粉浜辺りまで潟(ラグーン)が延び、淡水と海水が入り混じっていました。
鎌倉時代末まで、住吉大社の前は潟をなしていましたが、
その後池となり、江戸時代の『摂津名所図会』には、
独立した池に朱塗りの太鼓橋が架けられている図が描かれています。

大阪平野を東西に直進する「しはつ道」によって、
大和地方と密接に結ばれ、あられ(安良礼)松原は、
今の住之江区安立(あんりゅう)町付近であったとされています。
古くは細江(細井)川は住吉津に注ぎ、河口部の入江付近の浜は
出見(いでみ)浜とよばれ、古来名所として歌に詠まれました。

手水舎の傍に「誕生石」があります。

丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したが、北条政子により捕えられ
殺害されるところを家臣の本田次郎親経(ちかつね)によって
難を逃れ、摂津住吉に至った。このあたりで日が暮れ、
雷雨に遭い前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、
局らを住吉の松原に導いてゆき、社頭に至った時には局が産気づいた。
本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍の大石を抱いて男児を出産した。
これを知った
住吉の神人田中光宗(みつむね)は湯茶をすすめて
介抱し保護したという。是を知った
源頼朝は本田次郎を賞し、
若君に成長した男児は後に薩摩・大隅二か国をあてられた。
これが島津氏の初代・島津三郎忠久公である。この故事により、
住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ「誕生石」の聖地に
垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が続いている。

丹後局は頼朝の乳母・比企尼の長女で、丹後内侍と称して
二条院に仕え優れた歌人として知られていました。
惟宗広言(これむねのひろこと)に嫁いで島津忠久を生み、
その後、離縁し関東へ下って安達盛長に
再嫁したとされています。盛長は妻の縁で頼朝に仕え、
頼朝の挙兵前からの側近であったという。



『島津正統系図』によると、島津忠久は惟宗広言と
丹後内侍の間に生まれたとされていますが、
近年、広言の養子ではないかという説もだされています。

当時、妻以外に愛妾を迎えて子孫を増やしていくのが
一般的でしたが、北条政子は妾の存在を許しませんでしたから、
その嫉妬深さを伝説的に語る数々のエピソードが残っています。
流人暮らしの頃から仕え、丹後内侍が頼朝に近い
女性であったことや住吉大社が中世には和歌の神として
広く知られるようになっていたことから
こんな伝説が生まれたのではないでしょうか。

 住吉大社には、「一寸法師」も伝わっています。
難波の里に住むおじいさんとおばあさんには子供がいませんでしたが、
住吉大明神に参拝し子宝祈願をしたところ、
親指ほどの子を授かったというお話が『御伽草子』に記されています。

住吉大社(義経の親戚にあたる神主津守長盛)  
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
南海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分
 阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ
開門時間
・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間
・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
金子晋「美しい水都が見えた」アド・ポポロ、平成23年
小笠原好彦「古代の三都を歩く 難波京の風景」文英堂、1995年
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年
「平成二十二年 住吉暦」住吉大社、平成21年「大阪府の地名」平凡社、2001年
犬養孝「万葉の旅(中)」社会思想社、昭和49年
駒敏郎「万葉集を歩く」JTBキャンブックス、2001年
富田利雄「万葉スケッチ歩き」日貿出版社、2000年
斎藤喜久江・斎藤和江「比企遠宗の館跡」まつやま書房、2010年
脇田春子「中世に生きる女たち」岩波新書、1988年
奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年

 



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