![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/04/add2dfee9ba39e917fbb584cf114ac06.jpg)
平家が壇ノ浦で滅んだ翌年の文治二年(1186)、比叡山の顕真(けんしん)が
大原の勝林院に法然を招いて、浄土念仏の教理を論議・問答しました。
比叡山の俊才や東大寺の重源とその弟子達、さらに大原の上人たちも
参加して行われた論戦は、一日一夜に及びましたが、
法然は、どのような難問にも経典の根拠を挙げて理路整然と論破しました。
これが有名な大原問答です。貧しい、学がない、難しい修行もしない
一般の民衆に法然のまなざしは向けられ、いかなる人間、
例え罪人であっても一心に南無阿弥陀仏(阿弥陀仏におすがりします。)を
称えれば必ず極楽往生できる。と説く教えは多くの人々の心をとらえました。
これによって法然の名は広く知れ渡り、庶民だけでなく、
大原問答後まもなく、後白河法皇の姉の
上西門院(じょうさいもんいん)が、法然に説戒を依頼します。
その縁で後白河法皇やその皇女式子内親王、それに摂政九条兼実らも
熱烈な信者となり、のちに兼実は法然を戒師として出家します。
討論の会場となった魚山(ぎょざん)勝林院は、慈覚大師円仁が中国で学び
比叡山に伝承されていた声明を広めるために、長和二年(1013)に
左大臣源雅信の子、寂源によって創建された天台宗延暦寺の別院です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/d2/4849ceedae628e0f16169658cff5dd45.jpg)
大原問答で知られる勝林院の本堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/ae/0c82a6184941efc2ae6ca67639f2a6e5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/d3/f64edef7d54f3f195911c9e7cb0c9075.jpg)
法然上人が大原問答の際に法華堂の前、来迎橋の袂にある
この石に腰かけて休息したといわれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/7a/360fe4fc9af3eb70026fe0a1708bee85.jpg)
三千院の近く、律川に架かる橋の畔に
熊谷直実腰掛石と鉈捨藪跡があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/89/b5400719e472f6ea0bd9f71aa90b76a0.jpg)
鉈捨藪(なたすてやぶ)跡
文治2年(1186年)の大原寺勝林院での法然上人の大原問答の折に、
その弟子の熊谷直実(蓮生坊)は、
「師の法然上人が論議にもし敗れたならば法敵を討たん。」との
目的で袖に鉈を隠し持っておりましたが、
上人に諭されて鉈を藪に投げ捨てたと伝えられています。
なお、勝林院は橋を渡り50メートル先です。京都大原里づくり協会
(現地説明板より)
熊谷直実が法然の門を叩いたのは、所領争いの御前裁判が行われた
建久三年(1192)以後のことですから、大原問答の時、
直実が法然上人のお供をしたというのは、史実とは異なります。
大原問答にまつわる直実の史跡は、直実の武勇や激しい気性、
法然によく仕えて信仰に一途な僧となったことが結びつけられて、
生まれた伝説の史跡と考えられます。
『アクセス』
「勝林院」京都市左京区大原勝林院187 京都バス、市バス「大原」下車徒歩15分
『参考資料』
梅原猛「法然の哀しみ」(上)小学館文庫 梅原猛「京都発見」(3)新潮社
別冊太陽「法然」平凡社 「昭和京都名所図会」(洛北)駿々堂