平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




京都市の最北部、花脊の奧に藤原信西が奉行となり、
平清盛が造営にかかわったという
大悲山峰定寺(ぶじょうじ)があります。
鞍馬より約20㌔、寺谷川の渓谷沿いにある大悲山は、山全体が山岳信仰の対象、

修験道の道場とされ、奈良の大峰山に対して北大峰とも呼ばれ、
この周辺は古くから落人の隠れ里でもありました。

俊寛が鹿ケ谷事件で鬼界ヶ島に遠流になった後、
その妻子は雪深いこの地に身を隠し、俊寛
の無事を祈りましたが、
やがて近くの「なめら谷」で病没したと伝えられています。


 寺伝によると、平安時代末期の仁平4年(1154)2月、鳥羽法皇の御願により
山岳修験者の観空西念(三滝上人)が、
大悲山の中腹に法皇奉納の
十一面千手観音像を祀った堂宇を建てたのが起こりです。
境内の仁王門や本堂造営に平清盛が任命され、同年5月に仏舎利や
十六羅漢画像を清盛が奉納したと伝えられています。


 現存する本堂や仁王門などの建築物は、鎌倉時代末期の再建によるもので、
建築物や仏像はいずれも国の重要文化財に指定されています。

  境内は撮影禁止、住所・氏名・入山受付時間を届けます。
45分程度で下りてくるよういわれ、貴重品以外の
手荷物を寺務所に預けて上ります。 

山麓にある仁王門は、八脚門で入母屋造り、
左右に木彫金剛力士立像(重文・平安)を安置しています。
胎内には長寛元年(1163)6月28日付で願主の名を記した墨書銘があり、
そこには沙弥生面、平貞能母尼、仏師僧良元の名が記されています。

 
仁王門から本堂まで老杉の木立の中、400段ほどの急な石段を上ります。
鐘楼を過ぎ、
石段の途中にある
石造宝篋印塔(俊寛僧都供養塔)が俊寛妻子隠棲を伝えています。
 「俊寛僧都供養塔」

「鬼界ヶ島に流島された折、僧都室一族
 大悲山境内に隠れ忍ぶ丈余の雪の中で三年余室、
 男児寒気のため亡くなり娘一人奈良の寺に預けられる。(源平盛衰記)          
 人々が後に供養塔をたてて供養したといわれています。」
              (俊寛僧都供養塔現地説明文)
 ここからさらに上ると、山の中腹、懸崖の上に舞台づくりの
本堂(重文・南北朝)、本堂東北隅に供水所(重文・南北朝)があります。
本堂の裏手は奇岩怪石がそそり立つ修験者の行場で、
立ち入り禁止となっています。






右手の道に入るとバス停があります。

このバス停で下車、道なりに進みます。

迫りくる厳しい寒さに備えて薪がうず高く積んであります。


『アクセス』
「大悲山峰定寺」京都市左京区花背原地町772
入山 9:00~15:30
12月から3月まで及び雨天入山禁止

叡山電車出町柳駅から京都バス広河原行「大悲山口」(約1時間30分)
下車、東へ2K(徒歩約30分)

(バスの運行は1日3本程度、ご注意ください。)
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛北)駿々堂



 
 


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