平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 





奥州に下る決心をし、鞍馬山を出た遮那王(義経)は、
金売吉次と粟田口の
十禅師社の前で会う約束をしました。
ここが待ち合わせの場所とされたのは、
京の出入口としてよく知られていたからです。

(街道と京の七口の図は街道・道 HPよりお借りしました。)
粟田口は京の七口のひとつで、東海道・東山道・北陸道と京の都をつなぐ街道でした。
京の七口は時代によって多少変化していますが、
粟田口、鳥羽口、丹波口、長坂口、伏見口、大原口、荒神口です。

粟田口には遮那王ゆかりの出世恵美須神社を祀る粟田神社があります。
この社は古くから旅立ち守護の神として崇敬を集め、
奥州へ向かう途上、
義経が当社境内にある出世恵比寿神社に
旅の無事と源氏再興を祈願したと伝えています。

三条通りに面した一の鳥居




一の鳥居をくぐってすぐ右手にあるのが粟田焼き発祥地の碑です。
粟田焼は洛東粟田地域で生産された陶器の総称で京焼の一つです。

左手には、出世恵比寿神社参道の碑がたっています。

二の鳥居からは緩やかな階段の参道を上ります。

鳥居に掛けられている扁額は、旧社名の感神院新宮(カンジインシングウ)となっています。
明治になり粟田神社と改められました。




右手に見えるのは社務所です。

拝殿は元禄16年(1703)に建てられ、細部様式もその頃のものと伝えています。

この辺りからは、平安神宮の朱の鳥居や美術館・岡崎一帯が見渡せ、
船形・左大文字・鳥居・右大文字の送り火も見ることができます。


粟田神社本殿その背後に幣殿

出世恵美須神社は本殿左手奥にあります。
ご神像は最澄作の日本最古の恵比寿像と伝わっています。
例年1月のえびすさんの日に開帳されます。

遮那王が源家再興と旅の安全を祈願したという出世恵比寿神社は、
もとは三条蹴上の粟田山夷谷にありましたが、明治になって粟田神社に移されました。

義経金売吉次の待ち合せ場所(粟田口十禅師社)  
『アクセス』
「粟田神社」京都市東山区粟田口鍛冶町1 地下鉄東西線東山駅下車東へ6、7分
『参考資料』
五味文彦「義経記」山川出版社、2005年 「義経ハンドブック」京都新聞出版センター、2005年
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂、1981年

 

 






 

  


 

 



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