平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



  
元禄7年(1694)10月、芭蕉は大坂で体調を崩し、
花屋仁左衛門の貸座敷で51歳の生涯を終えました。

花屋仁左衛門の貸座敷は、南御堂の
門前にあったとされ、「此付近芭蕉翁終焉の地」の石碑が、
南御堂前の緑地帯にたっています。


碑の側面には「昭和九年三月之建大阪府」と刻まれています。

この石碑の付近に花屋仁左衛門の邸がありました。

芭蕉が終焉の地大阪に来たのは、死の1ヶ月ほど前の
元禄7年16949月9日のことでした。
お盆のために伊賀上野に帰省していた芭蕉は、故郷を出て
奈良で一泊した後、大阪へ入ったのは、大坂の門人・之堂(しどう)と
酒堂(しゅどう)との対立を仲裁するためでした。
それからその足で長崎へ向かうつもりだったといわれています。

この頃の芭蕉の気がかりは之堂と酒堂の反目でした。
酒堂は
膳所で医者をしていましたが、医者を辞めて俳諧師として
一旗あげようと湖南から大坂へ進出し、以前から大坂にいた
之堂(諷竹)と確執を生じていました

仲裁は失敗に終わり、旅の疲れもでたのか芭蕉は体調を崩しましたが、
やがて回復し住吉大社に詣で句会にも参加し、
♪この道やゆく人なしに秋の暮れ  ♪秋深き隣は何をする人ぞ 
などと詠み多くの句を残しています。
住吉高燈籠 汐掛道 芭蕉句碑 住友燈籠  

ところが同月29日の夜、ひどい下痢を起こし床につきました。
10月5日には、大坂本町の薬屋だったという手狭な之道宅から
南御堂前の花屋仁左衛門(南御堂に花を納める店)の
離れ座敷に病床を移し、京都・近江・伊賀の門人たちにも
病気のことが知らされました。

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる は、亡くなる4日前に詠んだ句です。
10月12日申の刻(午後4時ごろ)、門人である医師木節や
弟子たちに見守られながらの最期でした。

同日夜に「木曽塚に送るべし」との遺言により、
芭蕉の遺体は川舟に乗せられ向井去来、其角らの門人が付き添い
淀川の船着き場から京都の伏見まで運ばれました。
翌朝に伏見を発ち、琵琶湖畔にある膳所の義仲寺に到着。
弟子や会葬者300人ほどが集まり14日に葬儀が行われ、
深夜、遺体は木曽義仲の墓の隣に埋葬されました。 

おりから上方旅行中の其角が急を聞いて師の病床に駆けつけ、
葬儀に参列し ♪亡がらを 笠にかくすや 枯尾花 と詠んでいます。

南御堂前の入口近く、御堂筋に面してたつ「史跡芭蕉翁句碑」及び「由緒書」の碑。
  
大きく葉を広げた芭蕉の葉に見守られるように、辞世の句となった
「 旅に病で ゆめは枯野を かけまはる はせを」が碑に刻まれています。
「はせを」は芭蕉の仮名俳号で、芭蕉という号は、
雨風に破れやすい植物の芭蕉からきています。




  芭蕉句碑
 旅に病で ゆめは枯野を かけまはる はせを
この句は芭蕉臨終の句の一つで、この大阪の地で吟せられたものである。
芭蕉は元禄七年(1694)秋 伊賀から門人達に迎えられて 
大阪に着いたが滞在中に病気になり
養生のかいもなく
十月十二日この南御堂前で花を商う花屋仁左衛門の座敷で
五十一歳を一期として
旅の生涯を閉じた。 この句碑は後世 
天保の俳人達によって建てられたものである。

当南御堂では 芭蕉を偲んで毎年芭蕉忌が勤修され 
法要の後盛大に句会が催されている。
南御堂 難波別院(南御堂庭園内の説明板より)



御堂筋の名前の由来は、西本願寺津村別院(北御堂)、
           東本願寺難波別院(南御堂)からきています。
2016年4月、再度現地を訪ね撮影しました。
義仲寺1(木曽義仲と芭蕉)  
 『アクセス』 
「南御堂」大阪市中央区久太郎町 
地下鉄御堂筋線本町駅下車南へ200m

          地下鉄中央線本町駅下車 南へ50m
 『参考資料』
魚住孝至「芭蕉 最後の一句」筑摩選書、2011年
 山本健吉「芭蕉 その鑑賞と批評」飯塚書店、2006年

田中善信「芭蕉」中公新書、2010年
 「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社、2008年

 

 

                   

 


 

                     



コメント ( 5 ) | Trackback (  )