平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




伏見稲荷大社の少し南に、伊藤若冲ゆかりの石峰寺(せきほうじ)があります。
平安時代中期に多田(源)満仲が摂津多田郷にひらいた石峰寺を起こりとし、
江戸時代の正徳3年(1713)、中国僧千呆(せんがい)禅師が現在地に移したという。
もとは大寺でしたが、二度の火災で焼失し、
現本堂は昭和60年(1985)の再建で、本尊釈迦如来像を安置しています。


上り坂の参道の途中に竜宮造りの総門があります。

中門を入ると、寛政12年(1800)85歳の生涯を閉じた若冲の墓
「斗米庵(とまいあん)若冲居士墓」と若冲の事歴を書いた筆塚があります。
京都市上京区相国寺にある墓は生前につくった寿塔です。


江戸時代中期の画家伊藤若冲(1716~1800年)は、京都錦小路の青物問屋の
長男として生まれ、
23歳の時父親が亡くなったために、店を継ぐこととなります。

狩野派を学び、光琳派より宗・元の古画を取り入れ、
写生を基礎として動植物を描きました。
特に鶏の名手として知られています。
禅への並々ならぬ傾倒を示し30代半ば、相国寺の僧大典顕常に参禅、
若冲居士の号をえて、生涯僧のような生活を守り独身を貫きました。

若冲とは「老子」の中の「大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも」
(完成されたものはどこか欠けたように見えるが使っても尽きることがない)
の一節から採られています。
40歳の時弟に家督を譲り絵に専念します。

哲学者梅原猛氏は、「若冲の描く花や鳥は決して自然の中にある花や鳥ではない。
それはむしろ若冲によって魂を付与された、華麗で誇り高く、
各々の生命を精一杯謳歌している花や鳥であると思う。」と述べておられます。 
(2007・1・28日本経済新聞朝刊文化面より)

石仏五百羅漢像は、本堂背後の裏山にあります。

晩年石峰寺に草庵を結び、自らデザインした石の羅漢を石工に彫らせ、
石造釈迦如来像を中心として釈迦誕生より涅槃に至るまでの
一代をあらわし、
諸菩薩・五百羅漢を
安置しています。





この石仏は若冲が当寺七代密山和尚の協力を得て下絵を描き、
十年余りかけて石工に造らせたものと伝えています。また絵一枚につき
米1斗の謝礼を受け取り生活の糧とし「斗米先生」とよばれたり、
そのお金で
羅漢を彫らせたともいわれています。

五百羅漢の信仰
羅漢信仰は、鎌倉時代に中国から入り、信仰の担い手は僧侶でした。
羅漢……究極の悟りを得た聖人をいいます。


その後、江戸時代の中頃以降に五百羅漢の信仰が一般民衆に盛んになり、
各地に五百羅漢の石仏や木造仏が作られ、表情もそれまでの異国的であったものが、
著しく日本的で人間味溢れるものになったといわれています。
『アクセス』
「石峰寺」
京都市 伏見 区深草石峰寺山町26 電話番号: 075-641-0792

拝観:3月~9月 9: 00~17:00 10月~2月 9:00~16:00
JR稲荷駅下車 東南へ400m 徒歩約7分 
京阪電車深草駅下 東へ350m 徒歩約7分 
『参考資料』
「京都府の歴史散歩」(中)山川出版社
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂

 

 

 






 



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