平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



大和田住吉神社境内に大和田青年団が
昭和16年に建立した「判官松之跡」の石碑があります。

社の説明板には、判官の松の由来として
「元暦2年(1185)、源義経は平家追討の軍を率いて船出するが、
暴風雨にあい漂流して大和田浦に着岸。
そこで、当村の住吉大明神に海上安全を祈願し、
松を記念樹として植えたので、里人はこれを判官松と呼んだ。

一説には義経の軍が流れ着いた時、大和田の庄屋が
鮒の昆布巻を献上しこまごまと生活の頻事を援助した。
喜んだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した。
どうしたことかみるみるうちに生きかえり松の姿に生長した。
尚この庄屋「鮒子多(ふじた)」の姓を与えたとも伝えられている。
(大和田墓地に鮒子多家の塚と墓石が現存している)

爾来この判官の松は年と共に天を突き沖を往き交う
船人たちに航海の指針として親しまれた。
明治10年雷火の為に不幸にも焼失の災にあい今はその大要を
地元青年団が石に刻み後世に伝えている。」とあります。

また地元には古くからこんな伝承もあります。

元暦元年(1184)義経は兵庫の福原にいた平氏を攻めようと
陸路西へ下向した折、当地に立ち寄り庄屋治郎左衛門の
歓待を受けました。その時、治郎左衛門は三宝に松苗を載せて寿ぎ
当地名産の鮒を昆布に巻いて差し出しました。

味も良くよろこぶというわけで縁起もよかったので、
義経は御礼に庄屋に「鮒子多(ふじた)」の姓を与え、
その松苗を植えたのが判官松だという伝えです。
さらに別の伝承では、昆布に巻いた
鮒の形を崩さないために箸を通しておきました。
その箸を義経が突き刺したら松になったともいう。

そこで大和田墓地にあるという鮒子多家の墓を訪ねました。



大和田霊園

大和田霊園の筋向いに墓はありました。


鮒子多姓の由来記 
平家物語巻11逆櫓の記によれば遡ること八百九年
元暦二年二月三日 源義経平家追討の為 摂津国渡辺今の堀江より
船出したが台風に遭い大和田に流れついた
義経は住吉神社にて航行の安全を祈願して松を植えた
 
その後松は判官松といわれ明治十年に雷火の為焼失し
今は記念碑が立てられている判官松にまつわり義経は庄屋が献上した
鮒の昆布巻の美味と奉仕を称賛して庄屋に鮒子多の姓を与えた
平成六年九月吉日 鮒子多直臣

鮒子多家の墓と塚

 
判官松之跡・大和田万葉歌碑(住吉神社)  

※当地の緊急事態宣言が延長され、安心して
外出できるようになるのはだいぶん先のことになりそうです。

PCの機嫌を見ながら少しずつでも更新させていただきます。
『アクセス』
「大和田霊園」大阪府大阪市西淀川区大和田6丁目14
阪神なんば線「出来島」駅より徒歩約7分
又は大和田住吉神社から約500m
『参考資料』
三善貞司「大阪史跡辞典」昭和61年 

  

 

 

 



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ご訪問ありがとうございます。

早速ですが、最近PCの調子が悪く、
度々フリーズを起こすようになりました。

新型コロナウィルス感染状況の中、PCを買い替えて
設定に来てもらうのも何かと心配なので、
しばらく見合わせたいと思っています。

申し訳ございませんが、
ご理解のほどよろしくお願いいたします。
また再開した時には、
どうぞよろしくお願い申しあげます。


どうぞ皆様方もお大切にお過ごしください。

 



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大阪市西淀川区大和田の住吉神社の境内には、
立派な判官松之跡の碑と大和田万葉歌碑があります。

住吉神社(通称名・大和田住吉)の祭神は住吉四神、
元応2年(1320)の創建と伝えられ、付近の漁民や
舟行安全の守り神として信仰されました。
明治43年(1910)に八幡神社、翌年皇大神宮社を合祀。

最寄りの阪神電鉄本線千船駅

千船駅から神崎川に架かる千船大橋を渡ります。






左手に見えるのは修理中の本殿







 拝殿内部

「判官松之跡」という銘は大阪市長坂間棟治(さかまむねじ)の書です。
裏面に碑文が刻まれています。


碑文の大意「史跡判官松紀要 元暦2年(1185)2月16日、
九郎判官は平家追討の軍を率い大物浦を船出し西国に向かうが、
途中暴風雨にあい漂流、大和田浦に着岸。
そこで、当村の住吉大明神に海上安全を祈願し、
松を記念樹として植えたので、里人はこれを判官松と呼んだ。
以後700年、樹容壮麗となり北摂の名勝として遠近に知れわたり、
淀川尻の示標として舟人の親しむところとなったが、
惜しいことに落雷のため明治10年(1877)消失した。
当時は幹の回りが十尺以上、昭和16年11月遺跡が壊滅するのを恐れて
大要を記して後世に伝える。大和田青年団」

元暦2年(1185)2月16日といえば、源氏軍が屋島に立てこもった
平家を追討しようと船出した日です。
源義経が率いるわずか5艘が暴風雨の中、佐藤兄弟、武蔵坊弁慶らが
「命令であるぞ船を早く出せ。出さねば射殺す。」と
恐れ怖がる船頭たちを脅迫し、摂津渡辺津から徳島県勝浦へ
風に乗って矢のように着いた。本当なら3日かかるところを
6時間ばかりで渡った。と『平家物語・巻11・逆櫓』は語っています。
もともと義経は梶原景時とともに150余艘の兵船で渡海する予定でしたが、
その際、義経と景時は舟に逆櫓(さかろ)を立てるかどうかで
争いもの別れしたと物語は伝えています。
だから物語に従うなら漂流はなかったことになりますが、
地元にはこのような伝承が残っているようです。

判官松の由来
平家物語巻第11逆櫓の記述によれば「元暦2年2月3日、
九郎判官義経都をたって摂津国渡辺(今の堀江)より
ふなぞろえして八嶋へすでによせんとす。
三河守範頼も同日都をたって摂津国神埼(今の西淀川)より
兵船をそろえて山陽道におもむかんとす」とある。

平家追討の軍勢は折からの台風の襲来にあり
一時退避を余儀なくされ、陣を張ったのがこの地である。
その時義経はあらためて住吉大明神に海上安全の祈願をし
一本の松の苗を手植えした。それが「判官の松」の由来である。

亦一説に義経の軍が流れ着いた時、大和田の庄屋が
鮒の昆布巻を献上しこまごまと生活の頻事を援助した。
喜んだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した。
どうしたことかみるみるうちに生きかえり松の姿に生長した。

尚この庄屋「鮒子多(ふじた)」の姓を与えたとも伝えられている。
(大和田墓地に鮒子多家の塚と墓石が現存している)
爾来この判官の松は年と共に天を突き沖を往き交う
船人たちに航海の指針として親しまれた。
明治10年雷火の為に不幸にも焼失の災にあい
今はその大要を地元青年団が石に刻み後世に伝えている。

大和田住吉神社 万葉歌碑の由来

濱清み浦なつかしき神代より  千船の泊る大和田の浦  
                           読み人しらず

万葉集にかいまみることのできる大和田を歌った古い和歌の碑である
併しこの歌の大和田の地は、神戸市の和田岬に近く、
かつて大和田の泊とよばれた附近をよんだものであるとの
説があるがこれは謬りで、摂津名所図会には、
大和田が「御手村の西北に在り此所尼崎に近くして河海の界なり、
故に魚鱗多し殊に鯉掴むという、なお浦浜古詠あり
兵庫の和田岬とするのは謬也」とことわつている。
尚土佐日記の一文を引用しこの歌をのせているので、
この万葉碑の重要性を再認識したいものである。(境内説明板より)



大和田万葉歌碑
自然石を組んだ台石の上に建つ4㍍ほどの三角型石の正面を
矩形(くけい=四角形)に磨き、正二位二寿基弘の書で、大正7年(1918)建立。
裏面に「施主高橋市蔵、大阪高橋音吉、神戸高橋卯之助、
東京千船崎富蔵」と彫られ、大正七年(1918)の建である。

歌は 浜きよくうらなつかしき神代より  千舟の泊る大和田乃浦 で、
『摂津名所図会』はじめ大抵の本には「読人知らず」と出ているが、
これは『万葉集』巻六の1067番歌で田辺福麿の作、
しかも今の大和田を詠んだものではない。
「敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時に作る歌」と詞書をもった
長歌につけた反歌二首の一つで、敏馬というのは今の神戸市灘区岩屋、
大石付近の海をいい、「敏馬の浦は大国主命の頃から多くの舟人で賑わったが、
本当に今も見事な白砂の浜が続いているよ」との意の長歌の後に、
「大和田の浦は美しいから神代の頃から多くの舟がくるのだなあ」と
反歌をつけたものである。

もともと大輪田の泊りという語は各地にあるが、
単に大輪田といえば今の神戸、つまり和田岬にいだかれた
兵庫港を指すのが常であった。
奈良時代にはすでに瀬戸航路の要津で、
延喜14年(914)の三善清行の『意見封事』に
弘仁三年(812)六月大輪田泊修復と出ており、
『摂津名所図会』等に
「浜清くの古詠兵庫和田岬とするは誤りなり」と
あるのは完全に誤りである。

同社では『摂津名所図会』の記述を引用し、
「大和田浦は当地、重要性を再認識せよ」との意の
説明板を横に建てているが、いかがであろうか。
田辺福麿は天平二十年(748)左大臣橘諸兄の使者として
大伴家持のもとに行ったことと、当時造酒司の令史だった
ことぐらいしか判らないが、江口から新庄迄の
運河が延暦4年(785)にやっと完成しているのをみても、
福麿が今の大和田で詠んだとは到底思われない。
(『大阪史跡辞典・住吉神社大和田万葉歌碑』)
源義経が姓を与えた鮒子多(ふじた)家の墓  
『アクセス』
住吉神社 大阪市西淀川区大和田5-20-20
阪神電鉄本線千船駅下車徒歩約8分。
『参考資料』
三善貞司「大阪史跡辞典」清文堂出版、昭和61年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年

 

 



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JR大正駅前

元暦2年(1185)2月、屋島にいる
平家軍を攻撃するため、義経が摂津渡辺津から
阿波へ
渡海した時には、暴風雨が味方してくれました。

ところが文治元年(1185)11月、都を落ちた義経が
九州へ向かうため大物浦(兵庫県尼崎市)から出航した際には、
船は嵐のため難破し、一行は離散し

義経は大阪市大正区の専称寺付近に流されました。
これまで数々の危機を乗り越えてきた義経も
この時ばかりは神に見放されたようです。




姫島山専称寺

この時、義経に同行した者は源有綱と堀弥太郎景光
(義経の郎党)、武蔵坊弁慶それに静御前の僅か4人でした。
義経主従は木津川を泳いで対岸の木津に渡り、
四天王寺辺りで1泊しました。
源有綱は源頼政の孫です。
伊豆守仲綱の息子で、義経の娘婿だった人物です。





木津川に架かる大浪橋。大正区と浪速区に架かる橋で幅約150m。

これには、渡辺津に本拠を置き、四天王寺とも関わっていた
渡辺党の支援があったと思われ、『義経記・巻4』には、
摂津渡辺(大阪市天満辺)に立ち寄ったと書かれています。
渡辺党の助けがなければ、義経が無事に
吉野山に
げこめたとは思われません。

『古今著聞集』によると、義経は頼朝と対立し西国へ向かう時、
渡辺緩(ゆるう)、番(つがう)のもとに立ち寄り、
事の次第を説明すると、番は悲しんで見送りました。

後にこれが頼朝の耳に入って番は勘気を蒙り、関東に召され
梶原景時に預けられましたが、頼朝の平泉攻めの時、
活躍して許され本領渡辺を安堵されたという。
武勇の誉れ高い渡辺党が、義経に同情し
不遇な歳月を送ったことを語っています。

渡辺津は大江渡(おおえのわたり)ともいわれ、
淀川河口の要地で、水と陸との交通の要衝です。
熊野参詣のコースであり、陸路の起点となったところです。

四天王寺、座摩社とも関与していた渡辺党は、
その性格からいっても住吉社とも関わっていたと思われますが、
明確な史料は残されていません。

『義経記・巻4』は、義経が九州へ渡ろうとして
大物浦から
船出し遭難した時、渡辺津から住吉へ赴き、
その夜は住吉社の神主津守長盛のもとで過ごしたとしています。

大江山の酒呑童子や土蜘蛛退治の説話でも知られる源
頼光
その四天王の一人、渡辺綱(つな)の子孫が渡辺党です。
代々一字名を称したので「渡辺一文字の輩(やから)」と呼ばれ、
綱の子の「久」が九州に基盤をつくり松浦氏の祖となっています。

渡辺氏より早く渡辺に住んでいた遠藤氏は、
一文字の輩渡辺氏と姻戚関係を結び、渡辺氏の一族となります。
のち文覚上人となった遠藤武者盛遠も渡辺党の一員です。

保元の乱では、源頼政軍の主力となったのが、
省(はぶく)、授(さずく)、連(つらね)、競(きおう)、
唱(となう)などの弓矢の芸に優れた渡辺党の面々でした。

宇治川合戦で頼政が切腹した時、その首を落として敵に
奪われないよう、石をくくりつけて宇治川に沈めたのも「唱」です。

宇治川合戦で頼政に従った渡辺党の多くの者が合戦後、捕えられ
首を斬られましたが、源平合戦では、源氏軍として活躍しました。

壇ノ浦合戦で建礼門院を海中から引きあげたのは、義経に従った
番の父の源五馬允昵(げんごうまのじょうむつる)です。
(『平家物語』巻11・能登殿最後)

さて、四天王寺辺りに宿泊した義経は、静に一両日は迎えを待ち、
約束の日が過ぎたらすぐ逃げるようにと言い置いて
静一人を残して吉野へ向かいます。

やがて天王寺に留まった静に迎えの馬が来たので、
それに乗り3日かけて義経の待つ吉野山に到着しました。
義経鎧掛け松四天王寺  
『アクセス』
「専称寺」大阪市大正区三軒家東2
JR大正駅下車 徒歩約10分

『参考資料』
加地宏江「中世の大阪 水の里の兵たち」松籟社、1984年
前川佳代「源義経と壇ノ浦」吉川弘文館、2015年
三善貞司編 「大阪史蹟辞典(専称寺)」清文堂出版、昭和61年
角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫、2005年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年
現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館、2008年

富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年

 



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かつて昭和大典記念(昭和天皇即位)に建てられた
「伝静なごりの橋」の石碑が大物川の畔にありました。
現在、この石碑はもとの場所から少し離れた
辰巳八幡神社(尼崎市東本町1丁目)の境内に移されています。



『摂津名所図会』によると、大物川にかかる大物橋のたもとに
義経の旅宿があったとしています。また尼崎市東本町1丁目には、
静が化粧の水を使ったと伝えられる静化粧の井があったいわれ、
現、東本町1丁目には旧小字「静ノ井」がありました。

辰巳八幡神社の境内に建つ「傳静なごりの橋」の石碑。
謡曲『船弁慶』では、義経と静は大物(だいもつ)で
別れる筋立てになっているのに因んで建てられた石碑です。

義経公東下り絵巻「都落ち」中尊寺蔵

謡曲『船弁慶』 作者観世小次郎信光 
あらすじ
源義経は兄頼朝と不和になり、船で西国へ落ちのびようと
大物浦に到着しました。人目を忍ぶ旅なのだから
愛妾を伴うのは世間に憚るという弁慶の助言で、
義経はそれまで従ってきた静御前に帰京を命じます。
静は悲しみますがどうしようもありません。
義経の前途を祈って別れの舞を舞います。

舞い描くのは四季の京都の名所を綴る歌詞に乗った「都名所」、
静、最高の見せ場です。船頭が一行に乗船を勧め、
いよいよ別れの時がきました。静は名残りを惜しみ、
憂いの思いで花道を引っ込んで行きます。

一行が慌ただしく出航すると、突然暴風雨に襲われ、
次第に波が高くなるので、船頭は必死に船を操ります。
この時、海上に平家一門の亡霊が現れ、「早笛」にのって
壇ノ浦で入水した平知盛の怨霊が登場し「そもそもこれは、
桓武天皇九代の後胤、平知盛、幽霊なり」と名乗ります。
知盛は平家一門の恨みを晴らそうと現れたのです。

髪を振り乱し凄まじい形相で義経を海に
引きずり込もうと長刀を持って襲いかかりますが、
義経は少しも騒がず刀をとって戦います。
弁慶は刀では適うまいとそれを押しへだて、
陀羅尼を読んで怨霊を調伏します。
それでもなお追いかけてくる知盛を数珠を激しく揉んで
必死に祈ると、知盛の霊は花道へ押し戻され、
次第に遠く去っていき幕切れとなります。

義経は本来は大人の役ですが、静との情愛を
露骨に表現しないよう子方(こかた)が演じます。
相(あい)狂言(狂言方がつとめる役)の船頭は荒波に揉まれ、
木の葉のように船が翻弄されるさまをおもしろおかしく表現します。
謡曲『船弁慶』の見ものの一つです。

船頭  右手前は義経






辰巳八幡神社
 鎮座地 尼崎市東本町1丁目四十二番の二 祭神 応神天皇

旧社伝に宇佐八幡宮よりの勧請であるとされ、応永二十六年(1419)
日隆上人が日蓮宗本興寺を当社地内に開基されたと寺伝にあり、
境内に現存する青面金剛童子碑台石の
文保三年(1319)の年号も当社創建の古さを物語るものであろう。

昭和二十年第二次世界大戦の戦火に罹り焼失し、
現在の社殿は昭和三十二年に復興されたものであり、
旧氏子町は辰巳町と稱え東大道町・西大道町・北浜地・
西渚町・南浜町・末広町の七町で構成されていた。 
大祭日 十月十五日 末社 金子稲荷大神
 大祭日 五月十二日 (駒札より)

昭和大典記念に建てられた「辰巳渡仇討址」碑。
左門殿川(さもんどがわ)に架かる辰巳橋近辺 、
辰巳の渡し場で
慶長8年(1603) 9月、仇討ちがあったと伝えています。
藤堂高虎の家臣高畑寿教の妻槇が、家来端四郎の助太刀により
亡夫の仇佐和新九郎を討ち取り自刃しました。
『アクセス』
「辰巳(たつみ)八幡神社」兵庫県尼崎市東本町1丁目42
大物駅南出口から徒歩約15分 
国道43号線の左門殿川手前、
川沿いを南へ下って、松島ポンプ場の西隣りにあります。

『参考資料』
「摂津名所図会」(下巻)古典籍刊行会、昭和50年
金子直樹「能鑑賞二百一番」淡交社、2008年
白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年 
「謡曲集(2)」小学館、昭和54年
「京から奥州へ 義経伝説をゆく」京都新聞出版センター、2004年
「平清盛と源平合戦関連文化財群の調査研究」 兵庫県教育委員会

 

 



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