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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

絶対はない、つまり何でもありなのだ

2016年05月29日 19時38分06秒 | Weblog

 「日本人は立派だ。原爆を投下した国の大統領に抗議することもなく、核廃絶に努力してくれると信じる」とオバマ大統領の演説に感心している人を皮肉る。そうかと思うと、「言葉だけなら誰でも出来る。実行してこそ本当の意味がある」と手厳しい。日本人は昔から、物事の白黒を徹底しないできた。どんなことをされても、逆にどんなことをしても、いつも「水に流す」ことで終わりにしてきた。

 それは日本の風土に大きな要因があるように思う。どんなに寒い日々が続いても、いつか必ず春が来て草が萌え葉が茂る。どんなに熱い日々がつづいても、いつか必ず秋が来て稲穂が実る。仏教が伝来した時も、それまで信じてきたものを破棄することはなかった。仏教の教えと土俗の信仰を合体させ、日本の仏教を作り上げていった。仏教には死者がこの世に帰ってくる教えはないが、それまで行っていた満月の夜に死者が戻るという言い伝えは「盆」となり、仏教の重要な行事となった。

 仏教では殺生を禁止したが、日本では神羅万象となり、いつの間にか山や大木への信仰が「八百万の神」へとなった。外来の教えをも巧みに取り入れてしまった。領地争いをしても、責任者の首を切り、皆殺しまでしなかった。適当なところで収めることで手を打ってきた。「あいまい」は切り札であり助け舟でもあった。徹底しなかったから、原因を探り改めることもしなかった。

 絶対がない、つまり何でもありなのだ。私はこれが嫌で、キリスト教に心ひかれた。でも、1神教のキリスト教の世界でも、ヨーロッパでは土俗の信仰がお祭りとして残っている。ハロインなどその典型だろう。人間は絶対的なものを求めながら、完璧にはなれないのだ。そのくせ絶対はないと言われると不安になってしまう。それだけ今が混とんとしているということなのかも知れない。

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