藤田嗣治はフランスで称賛されたのに、なぜ日本ではそれほどではなかったのだろう。名古屋市美術館で行われている『藤田嗣治展』を観ただけでその謎が解けるわけではないから、私の勝手な解釈になってしまう。嗣治は1886年(明治19年)の生まれ。翌年には東京美術学校が設立されている。嗣治が14歳の時に描いた水彩画が評価され、画家になる決意が生まれたようだ。
東京美術学校の頃に描いた作品が展示されていたが、画学生なら描くであろう普通の油彩画だった。フランスに渡ったのは27歳の時で、その頃のパリには画家を志す若者が集まっていた。しかも印象派に代わる新しい作風が探求されていた。だから、1914年に描かれた嗣治の作品は、どれもピカソやブラックの作品にそっくりだ。
写真がなかった時代の絵画は、記録の意味が大きかったから写実の技術が求められた。けれども何を描くか、何を伝えるか、絵画の役割が変わり、観たことのない表現されたことのない作品が人々の関心になった。嗣治が幼い時から慣れ親しんできた面相筆で描く技術がパリの人々には新鮮だったのだと思う。
嗣治にメチャクチャ写実力があるというより、白い下地に面相筆で線描きする東洋の技法が評価されたのだ。一躍世界のフジタとなったのに、日本の画家は「あれくらいならオレでも描ける」と嫉妬したのだろう。第1次世界大戦をフランスで体験している嗣治なのに、第2次大戦の時にはなぜか日本に帰国している。そして軍の嘱託となって戦争画を描いたので、終戦後は戦争協力者と非難された。
嗣治は多く弁明せずに日本を離れてしまった。「仕方がないことだった」と言う人もいるけれど、お金もあったのだから、海外へ脱出することもできたはずだ。それでも嗣治が描いた戦争画を見ると、決して戦争を賛美しているようには思えない。私の後ろで3人の女性が、「この人、4回も結婚しているのよ」と話していた。「それのどこがいけないですか?」と思いながら聞き流した。