蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

マッチポンプ(自作自演)

2022-10-02 | わたし
わたしは、自分自身の能力よりも、今いる位置のほうが上である。
今の年齢のわたしの体力、身体能力、作業能力、頭脳能力を冷静に評価し、それに相応しい位置を当てはめると、気分が悪くなり落ち込むため、評価したくない。
「正当に自分の能力を評価されていない」あるいは「実際より下に評価(低評価)されている」と嘆く、冷遇されている人の真逆である。
ではあるが、評価にはいろんな角度、面、見る側の見方があるので、一概に決めつけられない。
それに、冬に備えて、若い頃に活性化した養分を貯蔵しているから、生きながらえる(延長)分には蓄えはまだ底をつかない。

事故、事件、災害、病気、怪我などの不幸にも見舞われず、今日まで生きて来れたのは、運が良かったとしか言いようがない。
神に感謝するのみである。
この神は、わたし自身が自分の神様(一人二役)で、しかも信者は1人限定なので、他者とは共有できない。
監督と主演、脚本が同一人物、ついでに観客も自分、のようなもの。
(プロデューサーとスポンサーには協力していただくとして、、、)
さらにこの自分劇場、自分映画は、公開していない。
シェアは不可能。
守護神とは少し違う。
「守護神」というと摩訶不思議な霊にリンクしているようで(思い込みだとしても)、自分の意志とは裏腹にくっついて来る気持ち悪いニュアンスをわたしは敬遠する。
たとえ先祖の目に見えない加護がわたしを守ってくれる、という発想だとしても、「霊」そのものには抵抗がある。
わたし独自が作り出している「霊」の概念がある。
実際、霊に接触したという話や人がいるが、わたしは耳を貸さない。
納豆やギャンブルが嫌い、のようなかんじ?
目に見えないものが「霊」だとすると、せめて、成仏し昇華した「魂」であるならまだしも。

霊が禍いして悪さする、不幸に陥れるという説がある。
悪霊が取り憑くらしい。
悪霊を取り除かなければならないとか。
除霊。
実際、不幸が続く家や物件だとかには、除霊してもらうことがあるようだ。

この手の考え方には、ほんの少しのスキや落ち度やマイナスが生じると、たちまちに胡散臭い人が嗅ぎ付けて来る。
霊媒師、霊、、、などなどとは関わりたくない。
人の不幸に、蜜にたかる蟻のように群がる人々がいる。
心身が弱っていると、思考力が停止する瞬間があるので要注意。
が、藁をもすがる気持ちというものがあるのだろう。
科学が解決できないことを精神世界で解決しようとする。
科学で解決できないことは山のようにある。
原因や現象はわかっていても、根本的に解決できない。
隕石が飛んで来ないようには出来ない。
巨大隕石を迎撃できない。
ゲリラ豪雨など、雨の量を調整できない。
せいぜい、予想や予報、先人の知恵やAIを駆使して危機管理し、被害を最小限に食い止めるぐらいか。
地球温暖化対策には啓蒙啓発が必要。
あるいは、哲学か宗教に解決や救いを求める。
芸術なんていう方法もある。
音楽療法だとか、動物と触れ合って改善する療法だとか。
こころと身体はリンクしている。


たまたま幸運にも、不幸に見舞われなかった。
大きなプラスは、大きなマイナスがないこと。
プラマイゼロで安堵。
ほんの少しでもプラスなら儲けものである。

マイナスになった時はどうするか。
事後処理、やるべき義務はこなして、あとは引っ込む。
ジタバタせずに、じっとしておく。
傷が癒えるまで洞穴から出ない。
自然治癒力に任せる。

損切りしても、いつまでもマイナス、血が止まらない時は、それはそれ。
それも運命。
最低限の処置を施し、復活を信じて待つしかない。
復活を信じなければよいかも。
希望を絶たれ、絶望感に見舞われるのではなく、復活しようと思わない、という選択も一つの道である。
だが、普通、人間は弱いので、絶望すると生きていけない。


わたしは自分の力以上の場所に生を受けた。
死ぬ時は、等身大の自分か。
誰も評価してしてくれるわけではない。
評価を求めて行動するのは、わたしの美学に反する。
評価は自分が自分に下す。
が、現実を見ずに理想ばかり追い求めるのは、痛い。
現実をちゃんと正確に見て、正確に理解して把握するのが大事。
元も子もない、情けない現実を突きつけられても、耐えられるラフな精神が必要。
あるいは、ハッキリ見えすぎるメガネから、あまりよく見えないメガネに掛け替える。
老化で自然に目は曇る、、、神様からのプレゼントか。


ちなみに、話はころっと変わる。
商業と芸術は、相容れないが、微妙な関係。
仲良くしなければ。
宗教と政治とカネが結びつき、絶大な権力を生む。
お手上げだ。歴史は物語る。歴史は繰り返す。

今、わたしが孫が宿題をしている隣で静かに読んでいるのは「世界の歴史」。
その前に眺めていたのが、世界地図。
次女が、長女の2番目孫K(次女の甥)に、8歳の誕生日に先日プレゼントした動物図鑑を、孫Kが持ってきた。
その図鑑のカバーの裏には、2つの世界地図が描かれ、左半分には国名分けされた地図、右半分は標高地図になっている。
わたしはじっと見ていた。
意外にクロアチアが広い国土を有することに驚いた。
世界の主な山脈も、ほほぅと眺めた。
日本は世界地図の真ん中に位置していた。
子供の頃はもちろん、ごく最近まで、日本が真ん中に描かれている世界地図になんの疑問も抱かなかった。
が、「極東」とよく言われていたことにも何の抵抗も意識も持たず、すんなり受け入れていた。
真ん中にあるのに、なぜ極東なの?なんて、全然思わなかった。
眠っている意識というものは、そんなものだ。

で、今、わたしは「世界の歴史」を見ているわけだが、「読んでいる」のではないのは、、、。
漫画だからだ。
漫画であろうが文字ギッシリであろうが、書いてある内容は同じ。
ページはまだマンモス時代からやっと古代文明に差し掛かるところ。
先は長いが、面白い。60の手習。
識字能力がないようなかんじで、読み進めていく。
この漫画は、じつはわたしが子供たちのために、35?年ぐらい前に買ったもの。
いずれ自分が読むことになるとは、同時は思いもよらなかったか、ちらりと脳裏をかすめたか定かではないが。
この漫画、日本の歴史シリーズなどもまだ控えている。
知っていることを知らないこととして再度触れるのは、面白い。
脳が喜んでいる。
これは学校で試験があるわけでもなく義務でもなんでもないので、完全に脳が解放されている。
自由な状態で自由意志で自主的にすることの素晴らしさ、楽しさ。
解放される喜びを噛み締めている。

だが、最後に。
書物に書かれている内容は、ころっと変わる場合がある。
歴史は書き替えられる可能性もあることを脳の隅っこに置く。
一つの考えや知識に凝り固まっては危険である。
しかし、多種多様な情報が渦巻くインターネットの海に溺れてしまわないよう、自分の核が必要だ。
フェイクニュースにいたっては、どう防御すればよいのか。
大変な時代である。