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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

スロー

2014-05-26 | 日々のこと
昨日は、寝たり起きたりの一日。
たまたま日曜日だったので、よかった。
外出しなければいけない日なら、相当、つらい。


昨日、ブログを書いているときだけは、一瞬、回復したように思えたが、
やはりそれは精神的なもので、ブログアップのあと、寝込んでいた。

ようやく、今朝からは、本調子。
週明けから、調子が戻ってやれやれだ。


・・・

話は変わるが、
わたしのアタマの中では、着々と断捨離が行われている。
これが脳内からあふれ出て、オーバーフロー洪水となった暁には、確実に着実に、
断捨離は敢行される予定である。

ただ、わたしのアタマは、人様のアタマに比べると、いささか、柔軟性、キャパシティが大きく、寛容で、
少々のことでは、破裂せず、へたすると、たいした変化もない場合もある。
断捨離の思いが、ぱんぱんになって溢れかえってもいいはずなのに、
いっこうに涼しい状態で、平素と変わらないことが考えられる。

なので、かなり強力なエネルギーを脳に送らなければならない。
たとえば、自分にペナルティを課すとか、
断捨離が行われないと、自分の寝る場所も確保できなくなるとか、
寒空の下、外に放り出されるとか、
はたまた、強制的に第三者の手によって、すべての品々が廃棄処分にされるとか。

ほとんどゴミみたいなものである。
ただ、愛着のあるゴミほど、やっかいなものはない。
ぜひ、残しておきたいものだけを厳密にチョイスして、
あとは、すべて捨てるなり、どこかに引き取ってもらうなりすればいい。
(ご親切な方が、その処理先をお教えくださったが、今のところ、まだ、大丈夫です)

大量の、「他人の目から見れば、たんなるゴミ」のなかに、
他人の目から見ても、たんなるゴミでないものも含まれている。
それは、ピックアップするのは、いとも簡単だ。
選別方法、基準がはっきりしているから。

最悪の場合、その、誰の目から見ても大事なもの、換金性のあるものだけを残して、
あとは、捨てたらいいのだ。
その前に、保留用として、箱を用意する。
捨ててもいいが、とりあえず、おいて置く。
おそらく、そんな箱を用意すると、不要なものを箱に詰めかえただけ、
そして、全部、おいて置く、ということになりそうだ。

わたしの知らない間に捨てておいてもらおうか。
しかし、くどくど、ぶつぶつ、ぐちぐちと、いつまでも不平不満、未練、愚痴を言いそうだ。
なら、ほんとうに、断捨離して空いたスペースが、どうしても必要に迫られた時、
その時が来るまで、不要物と暮らしてもいいのではないか、と、甘く自分にささやく、もうひとりの自分。

わたしは、モノが好きなので、どうしても、モノを集めたくなる。
コレクターである。
なので、捨てるのは、身を切る思いなのだ。
(収集するばかりで使わないから、新古品だらけ)
捨てること、モノとの離別で、ストレスが溜まるのなら、溜まらない方法を取るべきだ。
ということは、とりあえずは、脳内だけで断捨離を行い、なんらかの事情での決定的瞬間を迎えるまで、
脳のなかで、ゆっくり、のんびり断捨離を行うことにしよう。

わたしが、二度と自宅には戻らない施設に入るとか、片道切符の入院をするとか、そういう時、
換金性のあるものだけを残して、あとはすべて捨ててもらおう。
(といっても、意思表示しなくても、捨てられていることだろう)

予想に反して、片道切符の予定が、意外な神様のプレゼントの往復リターン切符で、自宅に戻ってきたとき、
がらーんとした我が家を見て、わたしは、どう思うか。
その時は、その時。
今とは違う状況、年齢、心身状態なので、それなりの順応性で対応することだろう。
あるいは、心電図では波動は上下しても、顔は無反応、無表情、こころの波は停止しているのかも。

・・・

いくら、ストックルームや大きな蔵がいくつもあっても、だめ。
どんどんモノを入れていくと、いずれパンクする。
捨てていかなければ、モノは増え続ける一方。
「とりあえず、入れておこう」の保留精神が、すべての元凶。

いくら高価な服でも、何年も袖を通していないものは、処分すべし、と、世間でよく言われている。
捨てられなければ、古着屋に持って行くとか、なんらかの方法はある。
そういう類の脳内シュミレーションは、どんどん行い、膨らんでくことを期待している。
行動の早い人なら、思い立ったその日に、もう行動を起こしていることだろう。
わたしの場合、脳内保留、醸造、醸成、じっくり脳内の樽の中で、寝かせてエネルギーを蓄えておかなければ、
なかなか行動に移れない。
スローである。

・・・

パリ行きも、脳内で何年も溜めて溜めて溜めて、一向に行動に移さなかったある日、
延々と「行きたい」という仮想の話を聞かされ続けていたリアル人から、
「いいかげんに、行ったら?」と言われた。
それで、背中を押された。

掃除もそう。
掃除しないと・・・と、延々とブログで書いていたら、「はやく掃除しなさい」と言われた。

孫サポートは、まだ「はやくサポートしなさい」とは言われていないものの、
「孫より、親の世話のほうが大事でしょ」と釘を刺された。
たまたま、孫のほうが、親の世話より時期的に先だったので、孫優先となった。

意気込んだ割には、たいしたことも出来ず、体調を崩した。
上娘からは、「疲れが出たのでは?」と、やさしい言葉をかけてもらった。
なんだか、それだけでも救われたような気になった。
元気な時ならまだしも、保育所で預かってくれない病気時だけのお泊り子守は、
自分では気づかなかったけれど、けっこう、大変だったのかも知れない。
自分はこういう時にしか役に立たないのだから、頑張らねば、と多少、無理をしたのかも知れない。

・・・

ブログで延々書いて、脳内の物質を変化させ、溜めるのが、わたしのエネルギー蓄積方法のようだ。

脳内からあふれ出し、行動に移して実践した後は、じつに、すっきり、爽快である。
ちゃっちゃと行動する人から見ると、この溜め期間の長さが、いらいらの原因になるのだろう。

なんてったって、わたし、スローですから。


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