昨日は、寝たり起きたりの一日。
たまたま日曜日だったので、よかった。
外出しなければいけない日なら、相当、つらい。
昨日、ブログを書いているときだけは、一瞬、回復したように思えたが、
やはりそれは精神的なもので、ブログアップのあと、寝込んでいた。
ようやく、今朝からは、本調子。
週明けから、調子が戻ってやれやれだ。
・・・
話は変わるが、
わたしのアタマの中では、着々と断捨離が行われている。
これが脳内からあふれ出て、オーバーフロー洪水となった暁には、確実に着実に、
断捨離は敢行される予定である。
ただ、わたしのアタマは、人様のアタマに比べると、いささか、柔軟性、キャパシティが大きく、寛容で、
少々のことでは、破裂せず、へたすると、たいした変化もない場合もある。
断捨離の思いが、ぱんぱんになって溢れかえってもいいはずなのに、
いっこうに涼しい状態で、平素と変わらないことが考えられる。
なので、かなり強力なエネルギーを脳に送らなければならない。
たとえば、自分にペナルティを課すとか、
断捨離が行われないと、自分の寝る場所も確保できなくなるとか、
寒空の下、外に放り出されるとか、
はたまた、強制的に第三者の手によって、すべての品々が廃棄処分にされるとか。
ほとんどゴミみたいなものである。
ただ、愛着のあるゴミほど、やっかいなものはない。
ぜひ、残しておきたいものだけを厳密にチョイスして、
あとは、すべて捨てるなり、どこかに引き取ってもらうなりすればいい。
(ご親切な方が、その処理先をお教えくださったが、今のところ、まだ、大丈夫です)
大量の、「他人の目から見れば、たんなるゴミ」のなかに、
他人の目から見ても、たんなるゴミでないものも含まれている。
それは、ピックアップするのは、いとも簡単だ。
選別方法、基準がはっきりしているから。
最悪の場合、その、誰の目から見ても大事なもの、換金性のあるものだけを残して、
あとは、捨てたらいいのだ。
その前に、保留用として、箱を用意する。
捨ててもいいが、とりあえず、おいて置く。
おそらく、そんな箱を用意すると、不要なものを箱に詰めかえただけ、
そして、全部、おいて置く、ということになりそうだ。
わたしの知らない間に捨てておいてもらおうか。
しかし、くどくど、ぶつぶつ、ぐちぐちと、いつまでも不平不満、未練、愚痴を言いそうだ。
なら、ほんとうに、断捨離して空いたスペースが、どうしても必要に迫られた時、
その時が来るまで、不要物と暮らしてもいいのではないか、と、甘く自分にささやく、もうひとりの自分。
わたしは、モノが好きなので、どうしても、モノを集めたくなる。
コレクターである。
なので、捨てるのは、身を切る思いなのだ。
(収集するばかりで使わないから、新古品だらけ)
捨てること、モノとの離別で、ストレスが溜まるのなら、溜まらない方法を取るべきだ。
ということは、とりあえずは、脳内だけで断捨離を行い、なんらかの事情での決定的瞬間を迎えるまで、
脳のなかで、ゆっくり、のんびり断捨離を行うことにしよう。
わたしが、二度と自宅には戻らない施設に入るとか、片道切符の入院をするとか、そういう時、
換金性のあるものだけを残して、あとはすべて捨ててもらおう。
(といっても、意思表示しなくても、捨てられていることだろう)
予想に反して、片道切符の予定が、意外な神様のプレゼントの往復リターン切符で、自宅に戻ってきたとき、
がらーんとした我が家を見て、わたしは、どう思うか。
その時は、その時。
今とは違う状況、年齢、心身状態なので、それなりの順応性で対応することだろう。
あるいは、心電図では波動は上下しても、顔は無反応、無表情、こころの波は停止しているのかも。
・・・
いくら、ストックルームや大きな蔵がいくつもあっても、だめ。
どんどんモノを入れていくと、いずれパンクする。
捨てていかなければ、モノは増え続ける一方。
「とりあえず、入れておこう」の保留精神が、すべての元凶。
いくら高価な服でも、何年も袖を通していないものは、処分すべし、と、世間でよく言われている。
捨てられなければ、古着屋に持って行くとか、なんらかの方法はある。
そういう類の脳内シュミレーションは、どんどん行い、膨らんでくことを期待している。
行動の早い人なら、思い立ったその日に、もう行動を起こしていることだろう。
わたしの場合、脳内保留、醸造、醸成、じっくり脳内の樽の中で、寝かせてエネルギーを蓄えておかなければ、
なかなか行動に移れない。
スローである。
・・・
パリ行きも、脳内で何年も溜めて溜めて溜めて、一向に行動に移さなかったある日、
延々と「行きたい」という仮想の話を聞かされ続けていたリアル人から、
「いいかげんに、行ったら?」と言われた。
それで、背中を押された。
掃除もそう。
掃除しないと・・・と、延々とブログで書いていたら、「はやく掃除しなさい」と言われた。
孫サポートは、まだ「はやくサポートしなさい」とは言われていないものの、
「孫より、親の世話のほうが大事でしょ」と釘を刺された。
たまたま、孫のほうが、親の世話より時期的に先だったので、孫優先となった。
意気込んだ割には、たいしたことも出来ず、体調を崩した。
上娘からは、「疲れが出たのでは?」と、やさしい言葉をかけてもらった。
なんだか、それだけでも救われたような気になった。
元気な時ならまだしも、保育所で預かってくれない病気時だけのお泊り子守は、
自分では気づかなかったけれど、けっこう、大変だったのかも知れない。
自分はこういう時にしか役に立たないのだから、頑張らねば、と多少、無理をしたのかも知れない。
・・・
ブログで延々書いて、脳内の物質を変化させ、溜めるのが、わたしのエネルギー蓄積方法のようだ。
脳内からあふれ出し、行動に移して実践した後は、じつに、すっきり、爽快である。
ちゃっちゃと行動する人から見ると、この溜め期間の長さが、いらいらの原因になるのだろう。
なんてったって、わたし、スローですから。
たまたま日曜日だったので、よかった。
外出しなければいけない日なら、相当、つらい。
昨日、ブログを書いているときだけは、一瞬、回復したように思えたが、
やはりそれは精神的なもので、ブログアップのあと、寝込んでいた。
ようやく、今朝からは、本調子。
週明けから、調子が戻ってやれやれだ。
・・・
話は変わるが、
わたしのアタマの中では、着々と断捨離が行われている。
これが脳内からあふれ出て、オーバーフロー洪水となった暁には、確実に着実に、
断捨離は敢行される予定である。
ただ、わたしのアタマは、人様のアタマに比べると、いささか、柔軟性、キャパシティが大きく、寛容で、
少々のことでは、破裂せず、へたすると、たいした変化もない場合もある。
断捨離の思いが、ぱんぱんになって溢れかえってもいいはずなのに、
いっこうに涼しい状態で、平素と変わらないことが考えられる。
なので、かなり強力なエネルギーを脳に送らなければならない。
たとえば、自分にペナルティを課すとか、
断捨離が行われないと、自分の寝る場所も確保できなくなるとか、
寒空の下、外に放り出されるとか、
はたまた、強制的に第三者の手によって、すべての品々が廃棄処分にされるとか。
ほとんどゴミみたいなものである。
ただ、愛着のあるゴミほど、やっかいなものはない。
ぜひ、残しておきたいものだけを厳密にチョイスして、
あとは、すべて捨てるなり、どこかに引き取ってもらうなりすればいい。
(ご親切な方が、その処理先をお教えくださったが、今のところ、まだ、大丈夫です)
大量の、「他人の目から見れば、たんなるゴミ」のなかに、
他人の目から見ても、たんなるゴミでないものも含まれている。
それは、ピックアップするのは、いとも簡単だ。
選別方法、基準がはっきりしているから。
最悪の場合、その、誰の目から見ても大事なもの、換金性のあるものだけを残して、
あとは、捨てたらいいのだ。
その前に、保留用として、箱を用意する。
捨ててもいいが、とりあえず、おいて置く。
おそらく、そんな箱を用意すると、不要なものを箱に詰めかえただけ、
そして、全部、おいて置く、ということになりそうだ。
わたしの知らない間に捨てておいてもらおうか。
しかし、くどくど、ぶつぶつ、ぐちぐちと、いつまでも不平不満、未練、愚痴を言いそうだ。
なら、ほんとうに、断捨離して空いたスペースが、どうしても必要に迫られた時、
その時が来るまで、不要物と暮らしてもいいのではないか、と、甘く自分にささやく、もうひとりの自分。
わたしは、モノが好きなので、どうしても、モノを集めたくなる。
コレクターである。
なので、捨てるのは、身を切る思いなのだ。
(収集するばかりで使わないから、新古品だらけ)
捨てること、モノとの離別で、ストレスが溜まるのなら、溜まらない方法を取るべきだ。
ということは、とりあえずは、脳内だけで断捨離を行い、なんらかの事情での決定的瞬間を迎えるまで、
脳のなかで、ゆっくり、のんびり断捨離を行うことにしよう。
わたしが、二度と自宅には戻らない施設に入るとか、片道切符の入院をするとか、そういう時、
換金性のあるものだけを残して、あとはすべて捨ててもらおう。
(といっても、意思表示しなくても、捨てられていることだろう)
予想に反して、片道切符の予定が、意外な神様のプレゼントの往復リターン切符で、自宅に戻ってきたとき、
がらーんとした我が家を見て、わたしは、どう思うか。
その時は、その時。
今とは違う状況、年齢、心身状態なので、それなりの順応性で対応することだろう。
あるいは、心電図では波動は上下しても、顔は無反応、無表情、こころの波は停止しているのかも。
・・・
いくら、ストックルームや大きな蔵がいくつもあっても、だめ。
どんどんモノを入れていくと、いずれパンクする。
捨てていかなければ、モノは増え続ける一方。
「とりあえず、入れておこう」の保留精神が、すべての元凶。
いくら高価な服でも、何年も袖を通していないものは、処分すべし、と、世間でよく言われている。
捨てられなければ、古着屋に持って行くとか、なんらかの方法はある。
そういう類の脳内シュミレーションは、どんどん行い、膨らんでくことを期待している。
行動の早い人なら、思い立ったその日に、もう行動を起こしていることだろう。
わたしの場合、脳内保留、醸造、醸成、じっくり脳内の樽の中で、寝かせてエネルギーを蓄えておかなければ、
なかなか行動に移れない。
スローである。
・・・
パリ行きも、脳内で何年も溜めて溜めて溜めて、一向に行動に移さなかったある日、
延々と「行きたい」という仮想の話を聞かされ続けていたリアル人から、
「いいかげんに、行ったら?」と言われた。
それで、背中を押された。
掃除もそう。
掃除しないと・・・と、延々とブログで書いていたら、「はやく掃除しなさい」と言われた。
孫サポートは、まだ「はやくサポートしなさい」とは言われていないものの、
「孫より、親の世話のほうが大事でしょ」と釘を刺された。
たまたま、孫のほうが、親の世話より時期的に先だったので、孫優先となった。
意気込んだ割には、たいしたことも出来ず、体調を崩した。
上娘からは、「疲れが出たのでは?」と、やさしい言葉をかけてもらった。
なんだか、それだけでも救われたような気になった。
元気な時ならまだしも、保育所で預かってくれない病気時だけのお泊り子守は、
自分では気づかなかったけれど、けっこう、大変だったのかも知れない。
自分はこういう時にしか役に立たないのだから、頑張らねば、と多少、無理をしたのかも知れない。
・・・
ブログで延々書いて、脳内の物質を変化させ、溜めるのが、わたしのエネルギー蓄積方法のようだ。
脳内からあふれ出し、行動に移して実践した後は、じつに、すっきり、爽快である。
ちゃっちゃと行動する人から見ると、この溜め期間の長さが、いらいらの原因になるのだろう。
なんてったって、わたし、スローですから。