こころを切り替えるのは、むつかしい。
わかりきっていることなのに、気持ちが切り替わらない。
あたりまえだ、人間だもの。(相田みつを・・・ではありません)
執着心は、とくに、やっかいなものだ。
切ろうとしても切れない。
一生、切れないかも知れない。
それはそれで、いいのかも。
自分で自覚しつつ、問題を抱えながら一生おつきあい。
問題のない人なんて、いないだろうから。
もし、問題がないと思っている人がいたら、
自分で気付いていないだけの、超ミラクル・ノーテンキ殿かも知れない。
世の中に「悪」なんか、ありません。
なぜなら、わたしが「善」だからです。
なんて、言っている人、こういう人がなにかの教祖さまだとしたら・・・
おそろしすぎる。
自分のなかの悪と闘うこと。折り合いをつけること。バランスをとること。
これが、大事だと思う。
これが、また、なかなか困難なのだが。
苦しいし、うまくいかないので、そういうときは、めんどくさいことは、ほっぽって、自分の長所を見る。
人間は、短所を直すより、長所を伸ばすほうが、楽でいい・・・らしい。
ものの見方、角度を変えると、執着心は、頑張りにつながる。
「生」への執着心は、奇跡をも起こす。
自分の核となるものは、執着心だったりする。
どんなものよりも、なによりも、譲れないもの。
それはそれで、いいのだけれど。
ただし、判断を誤っては、つまらない。
徒労に終わる人生など、誰もが送りたくはないはず。
たとえば・・・
人の持っているもので、自分が持っていないもの・・・
つい比べてしまう。
あたりまえだと思う。
あーあ、あの人は、あーなのに、わたしは、なんで、そーじゃないの?
人は人・・・と、思いたくても、なかなか思えない。
まして、目の前にいたり、毎日、顔を会わせていたりすると、
こころの中からおっ払おうったって、まとわりついてくるだろう。
そういう負の感情が積み重なると、こころの中で、溜まりに溜まって、えらいことになる。
距離感、風通しが必要。
特定の人の、すべてを把握したり、知ったりしようとしないこと。
表面に現れているのは、ごく一部であるということ。
目に見えない部分で、とても努力していたりする。
あるいは、人に言えない不幸な面があったりする。
野球の選手に、美術や、音楽の才能は問われないだろう。
大学教授に、スポーツの資質は求められないだろう。
自分の持っている、なにか長所を見過ごして、短所ばかりに日を当ててもしかたない。
どうしても短所が気になるのなら、少しずつ、自分が納得できるまで、克服できるまで頑張るしかない。
それが、埋めようの無い才能や資質の違いであったり、経済的な違いであったりしたなら、
ないものを欲しがって、不幸になるのは、ばからしい。
あるものを伸ばす方向に頑張るほうが、ずっと楽しいし、やりがいがある。
たとえ、取るに足らないようなレベルであっても、だ。
わたしは、卑怯である。
自分と同じような位置にいる人と、実生活において、深く付き合おうとしない。
競争心、ライバル心、劣等感が芽生えて、平常心が乱れる。
(めんどくさがりでもある)
付き合うとすると、うーーんと離れて、糸電話で話すかのごとくの、付き合いかたをする。
しかし、なんの説明もしなくても、同じような位置にいる人とは、通じるものがある。
それはそれで心地よい。
あの人が頑張っている、わたしも・・・
と、よい意味のライバル心は、おおいに結構だ。
手が届きそうもないような、たいそう素晴らしいと感じていたことも、
目が慣れてきたり、自分が変わると、見方も変わる。
ある日、それほどでもない、と感じる。
逆に、まったく取るに足らないこと、当たり前のことだと感じていたことも、
見る目を変えると、それはそれは大変な、不断の苦労の賜物だったりすることに気付く。
と、ぐたぐたと、具体性のないことを綴ってみた。
こころ穏やかに、
でも、じぶんのこころは、どこか、ぴんと張る部分をもって、
つつがなく暮らしたい。
(こういう表現、高齢の澄んだ方のエッセーにあるような、
なんだか、人生を達観した、お迎えがいつ来ても怖くない、80代後半のように捉えられそうだ・・・)
と書きつつ・・・
諸々の煩悩と闘う毎日である。