朝の貴重な15分。コアタイム。
で・・・わたしは、今期、朝ドラを見ないことにする・・・と決めた。
たいがい、一回目は、全力をあげて、めちゃくちゃ面白くしあげてある。
この一回で、半年の視聴率が決まる、
視聴者であるわたしは、行動、運命が決まるからだ。
で、いま、午前8時1分前。
わたしは・・・見ない・・・!!
さあ、かわりに、なにをやろう・・・?
黄金の15分を手に入れる・・・予定。
で、まず、黄金でもなんでもないのだけれど、
昨日アップの映画DVD「最強のふたり」記事に、追加。
きのう、夫の実家に向かう車の中で、上娘と感想のやりとり。
彼女は、富豪・熟年男性の館のインテリアが、もっと現代風だったらよかったのでは?と言う。
わたしは、あえて、あの古風なインテリアにして効果を出している、と反論。
現代風にすると、介護・移民系青年と熟年男性が、同じ方向の嗜好になってしまい、
ギャップ、目指すところが違うという設定が崩れるから。
しかしながら、トラディショナルな部屋は、客間であって
介護を受けている富豪男性の自室は、完全にリフォームされ、とても明るく機能的で快適な雰囲気だった。
そういう彼女の指摘に、なるほど、と納得した。
さらに、ふつうはありえない展開だが、あの、社会的にも肉体的にも、対極の二人がうまくいったのは、
富豪・熟年男性のほうに、固定観念や、先入観、古い価値観に対して、凝り固まらず、柔軟な順応性を持っていたこと。
音楽をはじめとする、芸術方面にも感性が解き放たれていたこと。
また、移民系・若者のほうに、無知・無教養だが、卑屈にならず、自分の考えや思いを、まっすぐ投げかけてきたこと。
予備知識がない故、既成概念に、とらわれない、素直な考え、感性を持っていたこと。
がちがちに固まったガンコ老人と、破廉恥でアタマのおかしい若者とでは、うまくいかない。
いろんな価値観から発生する社会現象、様々な矛盾点を、さらりと織り込んで、
さっぱりと、からりと、まとめてあった。
鼻息荒く、ムキになって力説するのではなく、あっさりと細部に散りばめてあった。
違いや、矛盾をはらんだまま、それぞれが生きることを容認する、社会の理想図であるように思えた。
娘たちは、熟年男性が障害を持った理由について、
ハングライダーで脊椎損傷になったという、いかにも金持ちらしい、
しかも趣味での事故なので、あまり、同情できないと感じたそうだ。
わたしは、それに対しては、もっともらしい悲劇的な理由からでは、話が重々しくなりすぎるから、
あのストーリーでいいのでは、と思った。
と、・・・・
今日の、連ドラ初回をぐっと我慢して見なかったことによって得た、黄金タイムが、
以上の、「最強のふたり」の追加事項となったわけだが・・・。
あんまり、黄金でもないかも。
ぐぐっと、辛抱して、泣く泣くドラマや映画を観ない、という方針。
つまり、時間の使い方の能動的チョイス。
それに振り回されることを卒業したい気持ちと、優先順位で、もっと大切なことが出てきた場合に起こる現象だ。
切りたいと前々から、うすうす感じ、えいやっと、意を決して切る。
ずるずる流されるのではなく、自分の意志で決別することを学んだ。
これは、ドラマだけなく、人間関係や、自分の行動に関しても。
振り回されたくないのだ。
いい意味でも、悪い意味でも。
すっきりした気分で臨める事態、状況を、自分で整えたい。
そのためには、その障害となると判断したものは、少々好きなことであっても、決別する。
能動的に生きたい、と、思うようになった。
残された人生を考えると、受動型から能動型へ。
ただし、自分ではどうしようもない、受け入れるべき、大きな流れに関しては、
じたばたせす、大きな気持ちで身を任せる。
自分の行動を自分で決める。
なんとなく生きているのではなく、貴重な時間を自分でデザインする。
そう・・・決めた。(この表現、「純と愛」のパクリです)
退屈な時間はありえない。
それは、退屈ではなく、メリハリのひとつで、身もこころも、リラックスしている、心身・緩和状態だろう。
悲しい時、情けない時、悔しい時、辛い時があったとしても、それも、正しい、適した時間だろう。
次につながる、助走、練習問題のようなものだ。
試行錯誤で、失敗を繰り返さないよう、原因を解明し、反省したり、努力したり、癒されたり・・・
バウンド。そして、リバウンド。
揺り戻し。
跳ね返り。
こころのバランスが良いと、体調が良い。
行ったり来たりして、毎日を生き、気が付くと、一生は、あっという間だ。