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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

どうそ、踏み台にしてください。

2013-04-15 | ファッション

わたしは、人に、マネされることがある。
幼稚園の時は、幼稚園で描いた絵、描いた絵、すべて、同じ幼稚園のYちゃんにマネされた。
彼女は、今は確か、プロのピアニストのはず。
ピアニストの感性の基礎の一部は、「わたしの絵」!!
すごい!!
でも、それは、当然、ある一定期間だけのことだろう。誰にでもあることだ。
創造は、模倣から。

次は、少し間が開いて、高校在学中、および、卒業したての頃。
仲良しのNちゃんに、着る服、着る服、みんなマネされた。
Nちゃんは、わたしと同じものを買う。
買うだけならいいが、それを着る。ヘアスタイル、ヘアアクセサリーまで同じ。
二人で歩くと、カッコ悪すぎる。
わたしのオリジナリティは、どこへ? 著作権ならぬ、衣装権は?
「あんまり同じ格好もどうかと。やめようよ」、とわたしが提案したのかどうか、忘れたが、
いずれ、彼女は、店にコーディネートされてディスプレイされているまんま、
上から下まで、まとめて、まるまるひっくるめて買うようになった。
つまり、コーディネートは外部にお任せ、ということだ。
それはそれで、笑われることは絶対にない、手堅いチョイスだ。
彼女は、今は、とある専門分野に特化した先生になっている。
とっくに、わたしなど卒業して、すばらしい感性を発揮されていることだろう。

わたしは、カッコ悪いコーディネートをして笑われ、失敗を繰り返し、わたし流があるわけで。
着ている服は、たいしたことないが、そこに行き着くまでに、かなりの服を無駄にした。


就職を目前に控えた、真面目な友人Gさんがいた。
彼女は、頑張りすぎる傾向にあるので、わたしといると、いい休憩になる、といって、
よく、わたしと、無駄な時間を過ごし、だらだらしていた。
そして、元気になると、「じゃあ」といって、また戦場のごとき、厳しい世界に、ばたばたと出かける。
しかし、たまに休憩するならいいが、わたしとずっといると、だめになってしまうようだ。
ついには、Gさんには、だめだめなわたしは見切りをつけられた。

そんなに頑張っても、緊張の糸が切れてしまいますよ。
ゆっくり、のんびりでいいじゃない。
と思うのだが、その、無神経ぶり、のうのう、へらへらぶりが腹に据えかねるのか、完ぺき主義のGさんは、去っていった。
わたしは、要領もアタマも悪いんで、弱さ、低能を武器にサボってるから、
真面目な彼女には、それが耐えられないのだろう。


わたしは、踏み台、たたき台で、けっこう。
みなさん、羽ばたいてください。
(わたしを残して、自力で羽ばたいていかれるところに、
わたしの、人としてのお手本にはなりえない、未熟さがある)


またまた服のことに戻るが、
ダンスレッスン教室では、年上のおばさま、M夫人が、いつの間にか、わたしとまったく同じウエアを着ていたりする。
少し、個性のあるものだが、着まわせて重宝する。
わたしよりあとに調達した後、他の生徒さんに、「どこで買ったの?」と聞かれ、親切に丁寧に教えておられた。
「買ってきてあげましょうか?」などと、親切ぶりにさらに拍車が、かかっていた。
皆で揃えたら、それじゃあ、教室のユニフォームになってしまうではないか。

わたしが、教室で売っている、ユーズド・ウエアを手にとって見ていたり、試着している度に、
なんだかんだ言ってくる人が少なからずいる。
わたしは、はっきりいって、寄ってきてほしくない。ほっといてほしい。
最近は、みんなの目につかないように、ちゃちゃっと、さっさと、時間を縫ってやっている。


ナゾ扱いにして、わたしのファッションをボロのちょんにけなしていた、わが上娘。
先日、わたしが履いていたシノワズリっぽいルームシューズを、
実家滞在期間中に、いつの間にか、まったく同じものをネットで注文して取り寄せていた。
二人で同じシューズ、なんか、おかしい。まるでペアみたいだ。
だいいち、二足並べてある時、どっちのシューズを履いていいのか、悩む。
せめて、色違いぐらいにしてほしかった。

もっと、驚くのは、・・・いつもわたしのファッションを理解できない、と、さんざんこきおろしていた実母。
去年の秋、芦屋にいっしょに出かけたとき、「あんたの着ているその服と同じ服、買ってきて」と言われた。
かなりユニークな、デザイン、柄、切り替えのある、コットンの、
くるぶしまであるロング丈、スカスカした、パンツだかスカートだかわからないもの。
「は?」 絶対に無理である。
長いし、裾がぱさぱさ、ぱらぱらして、足がもつれて、コケると思う。高齢の人にはアブナイ。
「これは、おばあちゃんには、ちょっとキツイと思うよ」と逃げた。
あのデザインのものを自分も着ようという、母の感覚も、なんともいえないものがある。


どうやら、わたしのファッションは、無国籍、無所属、年齢不詳らしい。

外国に旅に行っても、現地の人に、現地人として話しかけられることも少なくない。
馴染んでいるというか、息を殺して、目立たないように、ひっそり棲息しているからだろう。
ある人にそのことを言うと、
「堂々と歩いているから、姿勢がいいからじゃない?」とのコメント。
それは誉めすぎなので、却下。

「生き方」においては、人の、良いとこ取りをして、あとは、自分の方針で、別々の道を歩む。
ファッションも、わたしの年になると、生き方が現れる。
顔にシワがあり、肌が若い頃と違うのは、当然の年齢であり、同じであるほうが、おかしい。
少々、へんかも知れなくても、自分でいいと思えば、それでいい。
できるだけ、奇抜は避け、目立たないようにする、無難な保守路線も、素晴らしい。
挑戦は控え、手堅く、年齢にふさわしい重厚さを醸し出すのもいい。(ただし、灰色一色で、じじむさくなる傾向あり)
TPOさえわきまえたら、どんなファッションでもいいと思う。

「神戸の人は、おしゃれだ」、若い頃は、そう思っていた。
ファッション・メーカーがうまくそれを利用し、ブランド・イメージ戦略を展開した。
ファッションのみでなく、グルメ分野にも。
神戸を離れて久しい今、神戸ファッション、それほどでもないよ、と思いつつ、
でも、長い間の先入観は、なかなか変わらない。
現地で、多感な年頃に肌で感じた感覚は、自分には強烈だ。

先入観は、見る目を狂わせる。
普通であっても、良いようにも見えたり、悪いように見えたりする。

ファッションだけでなく、なにごとにも言える。

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