わたしは、人に、マネされることがある。
幼稚園の時は、幼稚園で描いた絵、描いた絵、すべて、同じ幼稚園のYちゃんにマネされた。
彼女は、今は確か、プロのピアニストのはず。
ピアニストの感性の基礎の一部は、「わたしの絵」!!
すごい!!
でも、それは、当然、ある一定期間だけのことだろう。誰にでもあることだ。
創造は、模倣から。
次は、少し間が開いて、高校在学中、および、卒業したての頃。
仲良しのNちゃんに、着る服、着る服、みんなマネされた。
Nちゃんは、わたしと同じものを買う。
買うだけならいいが、それを着る。ヘアスタイル、ヘアアクセサリーまで同じ。
二人で歩くと、カッコ悪すぎる。
わたしのオリジナリティは、どこへ? 著作権ならぬ、衣装権は?
「あんまり同じ格好もどうかと。やめようよ」、とわたしが提案したのかどうか、忘れたが、
いずれ、彼女は、店にコーディネートされてディスプレイされているまんま、
上から下まで、まとめて、まるまるひっくるめて買うようになった。
つまり、コーディネートは外部にお任せ、ということだ。
それはそれで、笑われることは絶対にない、手堅いチョイスだ。
彼女は、今は、とある専門分野に特化した先生になっている。
とっくに、わたしなど卒業して、すばらしい感性を発揮されていることだろう。
わたしは、カッコ悪いコーディネートをして笑われ、失敗を繰り返し、わたし流があるわけで。
着ている服は、たいしたことないが、そこに行き着くまでに、かなりの服を無駄にした。
就職を目前に控えた、真面目な友人Gさんがいた。
彼女は、頑張りすぎる傾向にあるので、わたしといると、いい休憩になる、といって、
よく、わたしと、無駄な時間を過ごし、だらだらしていた。
そして、元気になると、「じゃあ」といって、また戦場のごとき、厳しい世界に、ばたばたと出かける。
しかし、たまに休憩するならいいが、わたしとずっといると、だめになってしまうようだ。
ついには、Gさんには、だめだめなわたしは見切りをつけられた。
そんなに頑張っても、緊張の糸が切れてしまいますよ。
ゆっくり、のんびりでいいじゃない。
と思うのだが、その、無神経ぶり、のうのう、へらへらぶりが腹に据えかねるのか、完ぺき主義のGさんは、去っていった。
わたしは、要領もアタマも悪いんで、弱さ、低能を武器にサボってるから、
真面目な彼女には、それが耐えられないのだろう。
わたしは、踏み台、たたき台で、けっこう。
みなさん、羽ばたいてください。
(わたしを残して、自力で羽ばたいていかれるところに、
わたしの、人としてのお手本にはなりえない、未熟さがある)
またまた服のことに戻るが、
ダンスレッスン教室では、年上のおばさま、M夫人が、いつの間にか、わたしとまったく同じウエアを着ていたりする。
少し、個性のあるものだが、着まわせて重宝する。
わたしよりあとに調達した後、他の生徒さんに、「どこで買ったの?」と聞かれ、親切に丁寧に教えておられた。
「買ってきてあげましょうか?」などと、親切ぶりにさらに拍車が、かかっていた。
皆で揃えたら、それじゃあ、教室のユニフォームになってしまうではないか。
わたしが、教室で売っている、ユーズド・ウエアを手にとって見ていたり、試着している度に、
なんだかんだ言ってくる人が少なからずいる。
わたしは、はっきりいって、寄ってきてほしくない。ほっといてほしい。
最近は、みんなの目につかないように、ちゃちゃっと、さっさと、時間を縫ってやっている。
ナゾ扱いにして、わたしのファッションをボロのちょんにけなしていた、わが上娘。
先日、わたしが履いていたシノワズリっぽいルームシューズを、
実家滞在期間中に、いつの間にか、まったく同じものをネットで注文して取り寄せていた。
二人で同じシューズ、なんか、おかしい。まるでペアみたいだ。
だいいち、二足並べてある時、どっちのシューズを履いていいのか、悩む。
せめて、色違いぐらいにしてほしかった。
もっと、驚くのは、・・・いつもわたしのファッションを理解できない、と、さんざんこきおろしていた実母。
去年の秋、芦屋にいっしょに出かけたとき、「あんたの着ているその服と同じ服、買ってきて」と言われた。
かなりユニークな、デザイン、柄、切り替えのある、コットンの、
くるぶしまであるロング丈、スカスカした、パンツだかスカートだかわからないもの。
「は?」 絶対に無理である。
長いし、裾がぱさぱさ、ぱらぱらして、足がもつれて、コケると思う。高齢の人にはアブナイ。
「これは、おばあちゃんには、ちょっとキツイと思うよ」と逃げた。
あのデザインのものを自分も着ようという、母の感覚も、なんともいえないものがある。
どうやら、わたしのファッションは、無国籍、無所属、年齢不詳らしい。
外国に旅に行っても、現地の人に、現地人として話しかけられることも少なくない。
馴染んでいるというか、息を殺して、目立たないように、ひっそり棲息しているからだろう。
ある人にそのことを言うと、
「堂々と歩いているから、姿勢がいいからじゃない?」とのコメント。
それは誉めすぎなので、却下。
「生き方」においては、人の、良いとこ取りをして、あとは、自分の方針で、別々の道を歩む。
ファッションも、わたしの年になると、生き方が現れる。
顔にシワがあり、肌が若い頃と違うのは、当然の年齢であり、同じであるほうが、おかしい。
少々、へんかも知れなくても、自分でいいと思えば、それでいい。
できるだけ、奇抜は避け、目立たないようにする、無難な保守路線も、素晴らしい。
挑戦は控え、手堅く、年齢にふさわしい重厚さを醸し出すのもいい。(ただし、灰色一色で、じじむさくなる傾向あり)
TPOさえわきまえたら、どんなファッションでもいいと思う。
「神戸の人は、おしゃれだ」、若い頃は、そう思っていた。
ファッション・メーカーがうまくそれを利用し、ブランド・イメージ戦略を展開した。
ファッションのみでなく、グルメ分野にも。
神戸を離れて久しい今、神戸ファッション、それほどでもないよ、と思いつつ、
でも、長い間の先入観は、なかなか変わらない。
現地で、多感な年頃に肌で感じた感覚は、自分には強烈だ。
先入観は、見る目を狂わせる。
普通であっても、良いようにも見えたり、悪いように見えたりする。
ファッションだけでなく、なにごとにも言える。