昨夜、帰宅後に納屋の作業場に入る。新作ライターケースの作成だが、その前に先日の黒漆の二度目の上塗りである。前回の塗りの表面を研いで上塗りが膠着しやすい様に下地を整えるのが楽ではない。で、新作なのだが赤漆つまり朱漆である。お椀の内側の、あの赤い漆だ。ケース自体に金を使っているのでコントラストが大変美しいっ!是非とも成功に導かれたいモンである。これで、二日間はその素材を弄れないから、例の間合いの為に別の創作に取り掛からなくてはその間合いが待てない。先日買ったベルトのバックル造りや落花生型のペンダントに南洋真珠を入れ込んでのアクセサリーも思案しているが、とにかく意匠考慮に時を要する訳だ。
この暇な毎日の中でつくづく思う。へんな洋食屋の営業で、ロスは皆無である。とは言っても、毎日のライスやスープは少量余り炊いたご飯は自宅へ持ち帰る。これ、炊く前のお米だと横領なのだが在庫として成り立たない製品は一言「捨てたっ!」と言い切ればボールに詰め替えて持ち帰れる訳である。だからと言って、ワザワザ多く炊いてわざと余らせ持ち帰ると横領だ。紙一重だからこそ良心がモノを言う。世の中のニュースに出てしまう方々は、そこが異なる訳だ。余ったご飯を、お客さんにサービスと言って洗ってお粥にしたりした高級料亭も在る。余ったご飯とは、お客さんの食べ残しですよっ!鮎の食べ残し処ではありません。残す方も残す方だが、残しの美学も存在するらしい。私は、それ程に大食漢ではありません。と言いたいのか?一口残しである。以前、本の余白の美学について書いたがそれとは本質が異なる。例えが、思い付かずに「残しの美学」と「余白の美学」とを比較例えにしたが、考えると余白も紙の無駄とも言える。マァ、文化教養だから多少はゆったりとした
部分も必要だが、食文化とは逆である。生産物を無駄無く消費する事こそ食文化・食育である。
部分も必要だが、食文化とは逆である。生産物を無駄無く消費する事こそ食文化・食育である。