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虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

アボリジニ周辺事情を考えてみる

2017-10-01 16:43:41 | Weblog
さて前回(というかさっき)、「解放運動が無かったら黒人差別は消滅していただろう」と書いた。 で、思いついたわけだ。 オーストラリアのアボリジニ差別は消滅していないではないか、と。
アボリジニ解放運動のようなものは歴史的には、大々的には、無かった。 差別制度は1980年代まで生きていて、その頃BBCは割り箸を非難していた。 非難してたのBBCだったかな? まあいいや。
アボリジニ差別の現状について、考え方捉え方がいくつかに分かれると思う。
1. アボリジニ差別は消滅傾向にある
 a. 老人たちの中に差別が残っていて除去は困難だが彼らは去る
 b. 現在残っているかに見えるものは犯罪文化に対する区別である
2. アボリジニ差別は生き続けている
 a. 差別の自然消滅という考え方は幻想である
 b. オーストラリアは差別が自然消滅する条件下にない

さて、消滅したか否か、そもそも差別が消滅するのかどうかを議論するにあたって、「差別ってなんだ?」てのをはっきりさせた方が良いと思われる。 これ現状二通りの考え方があるようで、一つは、
・特定の差別されている人たちが居て、彼らが「差別された」と感じたらそれが差別なんだ

というもので、もう一つが
・社会制度かそれに準ずるものによって、能力や犯罪行為の有無とは関係なく不利益を被る側に分類されてしまう

といった状態と。 ここで扱うのは後者。 私は前者の主張を主張集団諸共ゴミに分類している都合扱わない。
次に、「差別意識」と「区別」の差。 区別から書いた方がいいか。 「差別ではない区別」とは
1. 能力
2. 経歴
3. 公的資格
4. 経済状態
5. 責任所属

に関する待遇差。 例えば「キリスト教圏で営業活動をする場合はキリスト教徒の方が有利よってキリスト教徒を担当に選ぶ」というのは能力と私的所属による判断、区別だが、国、法解釈によっては宗教差別とされる事もある。 現状色々難しいわけだ。
差別意識。 個人の嫌悪意識は差別ではない。 例えば小さいころ事故に遭い、スプラッターな場面を目撃しそれ以来、「血の色」が嫌いになったとする。 その人物が赤をシンボルカラーとする集団を忌避したとしてもそれは個人の自由選択であり差別ではない。 このケースの場合「事故のトラウマであり酌量されるべきだから」と捉える人が居るだろうがそういう話ではなく、理由の如何に関わらず、個人の行動の自由の範囲内であれば嫌悪による対応の差は差別ではない、という話。 逆に言うと、個人の自由の範囲外、業務や義務関連だわな、では嫌悪は優先されるべきではない。 「ハーケンクロイツが飾られていたのでピザを配達しなかった」という従業員が居たら雇用者はその件を、従業員の体調不良問題として適切に処理する義務があり、それが度重なるようならばその従業員をクビにしても問題ない。 「ドイツの場合はどうなのか」と言うと「個人の自由と社会的義務の関係よりも金権への忖度が優先されている例」だわな。
日本における在日朝鮮人を例にするなら「私は在日朝鮮人とは結婚しない」という人が居てもそれは嫌悪の自由。 その時「在日朝鮮人はマフィアだ」と言ったならばそれは差別発言。 一方、「娘を在日朝鮮人とは結婚させない」という親が居たらそれは自由侵害でありかつ差別。 その時「朝鮮学校ではテロ指導者の崇拝を教えている」という発言があったとしてもこれは差別発言ではなく、事実の指摘。

さてオーストラリアに戻ってみる。
アボリジニが差別されている状態は消滅したのか。 これは大規模な調査が出来るわけでもなく、結局個人の雑感を書くしかないのだが、私は消滅傾向にあると見る。 若い人たちの中では「アボリジニだから駄目」といった反応は消滅傾向にあるのだと。 「どこにも根拠が無いだろう」と言われるかもしれないが、とりあえずオンラインゲームでは多文化多国籍混在状況にある。 ただし、教育文化の差は指摘される傾向にある。
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