大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

相模二宮界隈(龍潭寺・知足寺)

2015-10-07 | 小田原

二宮町山西にある西光寺から吾妻山の東側、二宮駅から北、約1kのところに龍潭寺がある。浜松湖北五山の一寺、井伊谷井伊一族の菩提寺龍潭寺と関係があるのかと訪ねてみた。
 
奥浜松の万松山龍潭寺は臨済宗妙心寺派、二宮の龍潭寺の号は天寧山、開山円佐で小田原浜町の宝安寺末寺で曹洞宗のお寺さんだった。ここに舟形双体の道祖神や庚申塔、三猿板碑があるというので、境内を探しまわる。三猿板版はすぐ見つかったが、道祖神・庚申塔が見つからず、ご住職に聞いたら、本堂の横の池の中だと言う。池の中にあるとは気が付かなかった。
 
三猿板版は三基あったが、不見、不聴、不言の順番が三基とも異なっている。正しい順番が有るのだろうか。庚申塔と三猿との関係はよく分らないが、南方熊楠は十二支考で「遠紺碧軒随筆」を引いて、庚申の三猿は、もと天台大師三大部のうち、止観の空・仮・中の三諦を不見、不聴、不言に比したるを猿に表わして伝教大師三猿を創めたという。また道家の説に三尸(さんし・人間の体内にいると考えられていた虫)がその宿主の罪を伺察し、庚申の日ごとに天に上って上帝に報告し、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、この夜は寝ないで三尸が体から出ないよう守るというその風がわが国にも伝わり、また三尸は小鬼に類で、それを三猿で表したという。また論語の「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言」(礼にあらざれば視るなかれ、聴くなかれ、言うなかれ)から来たという説もある。
日光東照宮の三猿は左から不聴、不言、不見の順番。

龍潭寺の三猿は三基とも順番が異なるのが面白い。
  
龍潭寺から妙見神社、大応寺の前を通り、のんびり歩いて15分程度で知足寺に着く。
 
知足寺山門と本堂
 
知足寺は新編相模風土記稿に「藍海山花月院と号す、浄土宗(京知恩院末)相傳して、当寺は曩昔、二ノ宮彌太郎朝定(「東鑑」曽我物語等、太郎朝忠に作れり)が居蹟にして、建久の頃、朝定の後室花月尼(河津三郎祐泰が女と云)夫朝定、及び曽我兄弟等の為に、一宇を創し、冥福を修せしと云」とあり、知足寺墓域の西側奥に曽我兄弟と姉花月尼、その夫の二ノ宮彌太郎朝定の墓四基、並んでいる。
左から二宮朝定・花月尼・十郎祐成・五郎時致の墓

 
 
曽我十郎五郎兄弟による敵討ちは鎌倉時代の根本史料「吾妻鑑」にも記載があり歴史的事実であることは間違いのないところだが、敵討があったのは安元二年(1176)、吾妻鑑は治承四年(1180)から文永三年(1266)までの幕府の事績を編年体で記しているので、約百年後に吾妻鑑の編纂者は残された史料から曽我兄弟の事件を吾妻鑑に組入れたことになる。
現存する史料に真名本「曽我物語」と仮名本「曽我物語」があり、それぞれ内容に変化を持たしている。真名本が古様を示しているとはいえ軍記物語でもありそのまま事件を正確に伝えているとも思えない。室町時代天文十五年(1546)の書写奥書がある真名本「曽我物語」が一番古い写本とされている。
この妙本寺本は重要文化財で現在、H・P 国立博物館-e国宝、検索、曾我物語(真名本)で閲覧することが出来る。
小田原曽我の城前寺の曽我兄弟と母満江・曽我祐信の墓
 

相模二宮界隈(川勾神社・西光寺)

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