田代道彌著「西さがみの地名」という郷土歴史本がある。西さがみの地名を見直すとあり、二の宮の地名に関して、川勾神社の説明は色々あったが、ともあれこのようにして川勾神社に起源して二の宮の地名は始まったという。何がともあれなのか良く判らなかったが、相模二の宮が二宮の地名の元となったらしい川勾(かわわ)神社からスタートした。
後で貰った二宮町産業振興課のパンフに旧相武国の一の宮であった寒川神社と、旧師長国の一の宮であった川勾神社は新しい相模の一の宮を争い、川勾神社が二の宮となり、以来、川勾神社のある地域を「二宮」と称するようになったとあった。
吾妻鏡に、建久三年(1192)北条政子の安産祈願を相模国の神社・仏寺で行なわさせた。そのなかに一の宮(佐河大明神)、二の宮(河匂大明神)、三の宮(冠大明神)、四の宮(前祖大明神)の記載がある。
新編相模国風土記稿に川勾は「古、押切川(中村川)曲流せし故をもて、此地名起りしと云」、「二ノ宮明神社、往古は川勾神社と称す、延喜式当國十三座の一なり、応永の頃、囘禄(火災にあうこと)に罹りしより総て古伝を失えり。神主二見氏の祖先、勢二見浦より携来たり」と云い、「祖先は二條中納言の二子、藤原景平より出、景平伊勢國二見七郷を領す、因て二見氏を氏とす、後当国に下向し」云々とある。歴史地名大系「神奈川県の地名」によると、延喜式神明帳には川勾「かわわ」神社とあり、川勾(まがる)の意味としている。
左)石鳥居・文久三年建立時のもの、 右)伊藤博文による揮毫扁額
曲(まがる)と勾(まがる)は理解できるが、勾を「わ」と読ませるのか、今一つ判らなかった。神社で頂いたパンフに現在の宮司で41代続いているとあった。随神門を守る随神像は豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)、櫛磐間戸命 (くしいわまどのみこと)だと言われている。
神社の入口に忠魂碑が三基あった。中央に昭和七年建立の鈴木荘六陸軍大将の揮毫による忠魂碑(西南の役から満州事変までの戦歿者十四名合祀)、左右の忠魂碑は昭和三十年に建立(合わせて戦歿者二百九十五名合祀)。
川勾神社から南に200mほど歩いて小さな切通みたいな場所に袖切地蔵と道祖神石祠が向い合せにある。石祠の中の白いものが少し動いたのでビックリした。近づいて見たら子猫が気持ちよさそうに寝ていた。袖切地蔵は近所の子供たちが道で転んでも「袖が切れてもケガがなくて良かった」と袖を切って供えたのか由来だという。各地にある袖もぎ地蔵と同じ話が伝わっていた。
この袖切地蔵の先が西光寺の入口になる。無量院雨寶院西光寺は鎌倉時代頃に快實の開山と伝えられる真言宗のお寺で、ここにある双対の道祖神を見たかった。二宮は道祖神や庚申塔等の石仏が多く残されている。怒られてしまいそうだが、二宮というこじんまりした自治体の観光協会にしては、各種のパンフが豊富に揃えられていて、頑張っているという感じがする。ここで出している石仏ガイドマップの表に掲載されている可愛い双対の道祖神が西光寺にあった。
西光寺のあと、吾妻山の反対側にある知足寺に向かう。
相模二宮界隈(龍潭寺・知足寺)
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