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大佗坊の在目在口

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小田原 高長寺から新光明寺へ

2016-10-27 | 小田原

小田原城山の高長寺は、明治三十九年(1906)横浜監獄小田原分署幼年監(現小田原少年院)が設置された際に、建設予定地内の高源院と、隣接の長吉寺が合併され、それぞれの頭文字を取って高長寺と名付けられた。
 
 
新編相模国風土記稿に高源院は武蔵越生龍穏寺の末寺で栖龍山と号し、開山梅臾林呑(北條氏直の伯父と伝う)、開基である高源院長流泉香大姉は北條氏康妹にて山木御大方と称して、高源院と香沼姫(法名天桂院梅林祐香大姉)の位牌を安置するとある。高長寺の山門は、かつて西栢山村の旧家井上八右衛門家のものだったと伝わる。境内にあるという市の天然記念物の白木蓮の大木は残念ながら十五年に枯れてしまい、跡地に若木が植えてあった。ここに敵討ちで侍分に取り立てられた浅田鉄蔵の墓がある。
  
墓域に仇討由来があった。
文政元戊寅年七月小田原藩浅田只助藩中成瀧萬助ノ為メニ公私怨ヲ以テ殺害セラル依ツテ遺子兄鐡蔵當時二十一才弟門次郎十二歳ハ時ノ老中藩主大久保加賀守忠真公ノ免許ヲ得七ヶ年ノ間薩南ノ地ニマデ仇ヲ尋ネ艱難辛苦ノ末遂ニ水戸領岩船ニ於テ仇萬助ヲ討果シ首尾克ク本懐ヲトゲ帰参ノ上藩主ニ忠勤ヲ勵ム 此ノ仇討ハ日本最後ノ公許トナル鐡蔵ハ元治元年六十五才ヲ以テ歿ス  仇討孝子浅田鐡蔵ノ墓所是也
昭和三十五年一月  墓碑銘維新勤王家中垣謙斎撰文 孫 浅田勇次書
  
浅田光儀建立の鉄蔵墓碑に刻まれた小田原藩家老中垣秀實による撰文は風化して読取れなかったが、僅かに墓碑正面に鉄蔵の戒名、潜龍院大道義孝居士は辛うじて読取れる。(「小田原の金石文」に浅田光勝墓の中垣秀実による撰文が記載されているが、まったく照合することが出来なかった)
鐡蔵弟、浅田門次郎の墓がある新光明寺は高長寺から歩いて10分程度で、ちょうど少年院の反対側になる。
 
新光明寺は鎌倉光明寺の末寺で、号は天照山蓮華院、開山良記は貞誉と号し俗姓北條氏で、ここ新光明寺に浅田門次郎家の墓域がある。
 
三基ある墓の中央が浅田左五兵衛光乗(鐡蔵弟門次郎)と門次郎光通、左側が門次郎光通妻、右側は読み取れなかった。
 
浅田左五兵衛光乗(戒名、猛進院志願光乗居士)が浅田鐡蔵の弟の門次郎なのは安政五年の小田原藩順席帳にて確認できる。順席帳に記載のある門次郎光通は、御家中先祖並親類書によると浅田鐡蔵弟浅田左五兵衛、浅田鐡蔵甥門次郎とあるので左五兵衛の嫡子と思われる。
 

御家中先祖並親類書によると、浅田兄弟父、唯助は御切米五石御扶持二人分の諸組之者であったが、享和元年(1801)組抜(足軽のまま御番帳外の役職を勤める)、御料理人頭支配手伝いを勤めたが、文化六年(1809)十月、かねがね心掛け不宜、不慎之儀に付、隠居を命じられ、慌てて翌年の文化七年二月に井細田村の新蔵倅鐡蔵を養子として跡目を継がしている。

小田原 浅田兄弟敵討

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