天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

映画『私が棄てた女』風呂場で背中裸体を見せた浅丘ルリ子に日活衰退をくい止めようと必死な女優思いを痛感

2011-07-10 14:39:11 | 日記
今日の日記は、今とても久しぶりにお茶の間鑑賞して日活映画『私が棄てた女』(1969年製作 遠藤周作原作 浦山桐郎監督 河原崎長一郎 浅丘ルリ子 小林トシ江主演)のことです。
私は、今年70歳で映画『デンデラ』に主演した女優浅丘ルリ子の過去の作品に、とても興味が沸き、この42年前の映画をレンタル店から借りて、今お茶の間鑑賞しています。
この映画は、遠藤周作が1963年に発表した小説『わたしが・棄てた・女』が原作ですが、映画化にあたり原作を大幅に手直しして脚色しています。そして、DVDパッケージのキャストは映画の出演者クレジットとは違い、浅丘ルリ子がトップであり表紙には『主演:浅丘ルリ子 監督/浦山桐郎』と大きく表示されていました。
でも、実質的な主役は、勤務会社専務の姪(浅丘ルリ子)と結婚する学生運動に挫折した若い男(河原崎長一郎)であり、重要なテーマ(映画の題名にも)になっている彼が学生時代に棄てた女(小林トシエ)が準主役です。この二人の繰り広げる愛憎がストーリー展開の柱になっています。
しかし、このように集客力があるスターをクレジットのトップにする行為は、そのDVD販売収益を考慮すれば、私は製作会社をとても非難することができません。
そして、この映画を再び見て、当時の1960年代末の学生運動を懐かしく思い出しています。浅丘ルリ子は、この二人をただ引き立てるまったく損な役柄でしたが、彼女は腐ることなく体当たりの熱演をしています。彼女は、今までの日活映画ではただ男優スターの”刺身のツマ”みたいな存在でしたが、この映画では強く自己主張していました。
添付した写真は、河原崎長一郎と一緒にお風呂に入った浅丘ルリ子です。このカットシーンの後に、浅丘ルリ子は背中裸体を見せて、河原崎長一郎に洗ってもらっています。吹き替えの別人女優でないことを証明する為、あえて振り返ってこちらに顔を見せていました。数年前の映画では、まったく想像できない浅丘ルリ子の際どいシーンです。
この頃の日活は、多く観客を呼んでいた石原裕次郎・小林旭らの青春スター路線に陰りを見せていた時でした。だから、それら多くの映画に彼らと共演していた浅丘ルリ子にも、何か責任を感じる壮絶な覚悟があったのだと今私は思っています。
しかし、このような映画での必死な浅丘ルリ子の際どいシーンがあっても、日活の衰退をくい止めることは出来なかったのです。この映画の2年後、会社名を「にっかつ」に変更して、成人映画専門の”ロマンポルノ”配給会社となってしまったのです。
私は、この映画での浅丘ルリ子の熱演に、時代の流れに逆らおうとした女優の必死な思いを今痛感しています。
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