“地域活動”と一言で言うが、難しい概念である。特に札幌のような人口が密集している地域では人間関係が希薄となったり、そうした関係を疎んじたりする人も多く、地域活動が停滞する要因となっている。しかし、“地域活動”を少し広い概念で捉えることによって見方も多少変わってくるのではないか?とも思えるのだが…。
2月21日(木)午後、道民カレッジが主催する第2回地域活動実践講座「地域活動を語る会」が開催され、参加した。(第2回とは、昨年秋に続いての開催だったからである)
語る会の構成は、あらかじめ参加者が提出した自己の実践をレポートの発表、その発表をもとにしたグループ討議、そして札幌市内でボランティアガイドをされている方の実践をお聞きするという構成だった。
私は参加者を三つのグループに分けたCグループに属した。Cグループは6名だったが、レポート提出者は4名だった。私以外のレポートの内容は、A氏は地域において「歩こう会」を起ち上げ、そのリーダーとして活動している方、B氏は胆振東部地震の体験をもとに高齢者が近所同士の付き合いを大切することを感じたとするレポートだった。C氏は高齢のために最近は特に活動をしていないがと断りつつ、過去にマンション内で自分が得意なパソコン教室を始めようと呼びかけたが思ったようにはできなかった体験をレポートした。私はというと、これまで何度もレポートしてきてネタも尽きていたが、今回は次のようなレポートを提出した。
学びの成果を学習計画に生かしたい
道民カレッジで学び始めて10年が経過しようとしている。その間、私の取得単位は人さまと比べて決して多くはないが、それでも毎年多少は上積みしてきている。
私は道民カレッジに学ぶ目的は資格を得るとか、何かを得たいというものではない。ただ、学び続けることによって、自ら老化を防ぎ、いつまでも若々しくありたいな、というのが唯一の目的である。
そんな私であるが、最近講座を受講しているときに、あることに気づくことがある。それは「あれっ?このお話に関連あることを聞いたことがあるぞ!」、「あっ、この問題についてはある先生はこう言っていたぞ!」などと、これまでお聞きした講座がどこかで繋がってきたことを感ずることが増えてきたのだ。これは望外の喜びであり、受講を重ねることで私自身の知識が立体化してきているように感ずるのである。
こうした学びの喜びが、今私が所属している「めだかの学校」の学びに生かせるのではと思っている。
「めだかの学校」では、自分たちの学びを自分たちで計画して学びを継続している。学びの内容によっては広く学校に所属していない方々にも受講を呼びかけて学習している。
私は今、来年度の「めだかの学校」の学びの計画を作成し、広く受講を呼び掛けるための準備をしている真っ最中である。その講座とは、今年度に引き続き「さっぽろの古を訪ねて」という野外講座である。次年度はテーマを「お雇い外国人の事績を辿る」と題して、私や仲間がこれまで道民カレッジなどで学んだお雇い外国人に関する知識を総動員して学習計画を作成している最中である。
こうして道民カレッジでの学びが立体化され、さらにはそれが循環することは学ぶことの意味をより意義あるものになるような気がしている。
この4つのレポートから言えることは、“地域活動”とはいっても、従来のような自分が住む地域に根差した活動だけではなく、同じ趣味を持つ者、何かの目的をもって集まった者、などの活動も含めて広く“地域活動”と捉えたいと思うのだ。広く考えると、札幌といういささか広がりのある地域となってしまうが、それでも同じ自治体で暮らしている人たちである。そこでの繋がりがやがて自らが住んでいる地域へも目を向けていくことに繋がるかもしれないのだ。
グループ討議は、私が事務局から司会・進行を依頼されて進めた。討議では事務局の意向もあって主として従来の“地域活動”がテーマとなったが、そこでの課題はやはり参加者が少ない、役員のなり手がいない、というこれまでと同様の悩みだった。
国(厚生労働省)は我が国が超高齢化社会を迎えるにあたり、地域と共に高齢社会を支援する仕組みを構築するために「地域包括支援システム」なるものを進めようとしているようだ。その地域の受け皿として、町内会組織を活用しようとしているとも聞く。しかし、それは有効なのだろうか?現状を見たときにいささかお先が暗いと思うのは私だけだろうか?
「地域包括支援システム」について詳細を承知していない私がこれ以上評論することは批判を呼ぶ恐れがある。いずれにしても従来型の“地域活動”は曲がり角に来ているのではないか、というのが私の見立てなのだが…。