田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

まつりのあと・・・

2008-02-13 20:48:23 | 札幌(圏)探訪
 祭りのあとの淋しさが…
 いやでもやってくるのなら
 祭りのあとの淋しさは・・・♪

 ご存知、吉田拓郎が唄う「祭りのあと」の一節です。

 さっぽろ雪まつりが終わった翌日、勤務を終えた私は大通公園に足を運びました。
 そこは吉田拓郎の世界そのままでした。
 勇壮さを誇ったスフィンクスやラムセスⅡ世像も、緻密な彫刻を見るようだった犬山城も、すべて雪の塊となっていました。
     
     ※ before エジプトの遺跡

     
     ※ after エジプトの遺跡

 一方で、関係者の休憩室や売店に使われたプレハブ小屋も業者の手によって取り壊し作業が進んでいました。

 拓郎は「淋しさ」と唄いましたが、そこには同時に「儚さ」や「空しさ」も同居しているようでした。
 まつりが華やかであればあるほど、その後に来るこのような空気は避けがたいものかもしれません。

 しかし、まつりを泡沫(うたかた)の夢として記憶の彼方に追いやってしまってよいのでしょうか。 
 まつりの質としてはまったく異質ですが、私は現職時代に次のようなことを述べたことがあります。
 それは学校にとってはある種“まつり”とも呼べる公開研究会を催した後に述べたものです。(公開研究会とは、学校にとって自校の職員研修の成果を授業と共に広く外部に公開する大切な催しです)

 (前略)
 さて、“まつり”は終わった。
 私たちがなすべきことは何でしょうか・・・。
 私たちは“まつり”を迎えるために注いだエネルギーに劣らぬエネルギーを注いで“まつり”を振り返ることが必要なのだと思います。
 私たちは“まつり”を“まつり”で終わらせてしまってはいけないのです。
 気分が高揚した非日常的な中で実現した“まつり”の姿を、私たちは日常的なレベルで現実に根付かせ、さらに発展させなければなりません。
 そのためには、しっかり振り返り、“まつり”で得たこと、学んだことを分析・整理し、次への課題を見出すことが求められているのです。
 (後略)

 学校という小さな空間の出来事と、さっぽろ雪まつりを同列に論ずることなど無謀なことですが、どこかに通ずるものがありそうだなぁ~と思うところがあり、昔の文章を引っ張り出してみました・・・。