まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イングランド王エドワード1世王女 ジョアン

2011-02-05 23:41:59 | イングランド王妃・王女
身分違いの恋を実らせた
エドワード1世王女 ジョアン・オブ・アクレ
グロースター伯ギルバート夫人/モンテルマー男爵ラルフ夫人


1272~1307

ジョアンはエドワード1世とエリナー・オブ・カステイルの六女です(五女は流産)

ジョアンは、両親が十字軍遠征中に生まれました。
しばらくすると両親はアクレ(アッコ)を発ってシチリア、スペインに向かったので
母方の祖母ポンチュー伯ジャンヌとフランスへ向かいました。

           

孫は可愛い!と申しましょうか、ジョアンは祖母に徹底的に甘やかされて育ちます。
ポンチュー伯の屋敷のまわりは自然豊かだったようで、ジョアンは
丘のぶどう畑だとか谷間など、野趣あふれる領地で遊びまわったそうです。

しかし、エドワード1世は十字軍から帰国すると、政治的な力と富を増やすべく
5歳のジョアンの縁談にとりかかりました。
ドイツ王ルドルフ1世王子へルマンを相手に選ぶと
早速ジョアンをフランスから呼び戻しました。
ジョアンが父親に会ったのはこの時が初めてです、だのに縁談の話しなんて…

生憎ヘルマンがアイススケート中に亡くなりました。
エドワードはさっさと次の相手を探し、グロースター伯ギルバートを選びました。
グロースター伯は30歳も年上で離婚したばかりです。
父親としてどうなの? 自分と年が変わらない男に娘をあげるなんて…
でもグロースター伯は当時イングランドで最も力のある貴族のひとりでした。

ジョアンが12歳の時、縁談が整いました。
グロースター伯はジョアンに魅せられ、気を惹こうと必死でした。
かなりのプレゼント攻撃だったらしい

フランスで幸せ一杯に過ごしてきたジョアンは、両親とは馴染めませんでした。
それも結婚を承諾した理由のひとつかも…

しかし結婚はジョアンが18歳になってからでした。
待ちに待った48歳のグロースター伯は嬉しかったに違いありませんね。
でも結婚生活は5年で終わってしまいました。 子供は4人生まれています。

グロースター伯の死から1年ほどして、ジョアンは父王の近衛隊にいた
ラルフ・ド・モンテルマーの視線にぶつかりました。
ヨーロッパの王侯貴族の娘が、さして地位の無い従者と会話を交わすなんて
許されることではありませんでした、が、ふたりは恋に落ちます
すごい身分違い…ドラマティックですね!
ふたりは1297年にこっそり結婚しました。

ところが、エドワードはすでにジョアンとサヴォイア伯アメデーオ5世の縁談を
考えていたから大変です。
ジョアンは4人の子供を送り、父王の気持ちを和らげようと試みましたが失敗。
エドワードは結婚をいやがるジョアンから領地を取り上げました。

ジョアンが結婚したことを告白すると、エドワード1世は大激怒して
ラルフを投獄してしまいました。

ふたりの結婚は国を二分した議論を巻き起こしましたが
ジョアンの妊娠がわかって、とうとうエドワード1世の許しがでました。
ラルフはグロースター伯とハーフォード伯になりました。

子供も4人生まれて幸せに過ごしていたようですが、結婚から7年後
ジョアンはサフォークの別荘で亡くなりました。
出産のせいではないかと言われています。

ふたりの息子エドワードは、異父姉エリザベス・ド・クレアに尽くしました。
そのおかげで亡くなった時、母ジョアンの側に葬ってもらえたそうです。

1357年、そのエリザベスが「ママの棺を開けたら美しいままだった」と訴えたそうです。
他にもジョアンの棺に奇跡がおこったという訴えはあるらしいのですが
列聖には加えられませんでした…残念。

エドワード1世は名君のひとりに数えられる君主ですが、娘の結婚には非情ね。
ちょっと見損なっちゃたわ… 当時は当たり前だったのかもしれないけど。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント (4)
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イングランド王エドワード1世王女 エリナー

2011-02-05 02:04:20 | イングランド王妃・王女
婚約者を焦らしすぎて王妃にならず
エドワード1世王女 エリナー・オブ・イングランド
バー伯アンリ夫人


1269~1298

エドワード1世とエリナー・オブ・カステイルには16人のお子さんが生まれていますが
10人は生まれてすぐか、10歳ぐらいまでに夭逝しました。
エリナーは四女ですが、長女から三女までは生まれてすぐに亡くなっています。

エリナーが生まれた翌年から4年間、両親は十字軍で留守でしたので
お世話をしてくれた祖母のエリナー・オブ・プロヴァンスにとてもなついていました。
どうやら両親が帰って来た後もおばあちゃまの方が好きだったようです。

          

エリナーは小さな頃に4歳年上のアラゴン王子アルフォンソ(3世)と婚約していました。
しかしこの次期、アルフォンソの両親は教皇から破門されていました。

アラゴン側は後ろ盾が欲しかったんでしょうね…
早くエリナーをアラゴンに来させるよう再三要求します。
けれどもエドワード1世はなんだかんだと言ってアラゴン行きを止めていました。

1282年に再度要求があると「母と妻が幼すぎると言って反対している」と言い
2年間待つように要請しました。

でも結局2年経っても行かなくて、アルフォンソは結婚前に26歳で亡くなりました。
かわいそ~ 待たされたまま死んじゃうなんて。 嫌なら婚約破棄すればいいのにね。
いったい何があったんでしょうね? やはり破門されていたから?

アルフォンソの死から2年後の1293年、エリナーはバー伯アンリ3世と結婚します。
この結婚は、バー伯とイングランドが手を結んでフランス王に対抗することを
連想させましたので、フィリプ4世は警戒を強め、バー伯を投獄してしまいます。

バー伯が捕らえられていた数年間、エリナーはエドワード1世の援助を受けながら
ゲント(フランドル)で過ごしていました。
いつからいつまで離ればなれだったのかわからないんですが
1294年から1296年までひとりづつお子さんが生まれているからその後?
それとも面会可能な感じの軟禁状態だったのかしら?

エリナーは1298年はじめにイングランドに戻って亡くなっています。
ウェストミンスター寺院に葬られました。

バー伯はその後もフィリプ4世に虐げられてたみたいですが
1302年にナポリ王国の対シチリア戦争に参加してその後亡くなりました。

3人のお子さんのうち、次女エリナーはウェールズの
ルーアリン・アプ・オーウェンと結婚しています。
エドワード1世が敗ったウェールズ最後のプリンス、ルーアリン・アプ・グリフィズと
なんか関係があると思うんだけど違うのかな?
探ってみましたがわかりませんでした。

後に王になるテューダー家のヘンリー7世はオーウェンとエリナーの
子孫だということになってますが、これはテューダー朝の歴史家たちが
ヘンリー7世に王家の血が流れていることにしようとしたんじゃないかと…
疑惑の継承をしたヘンリー7世は、けっこうそういうことしてます。
おっと、口がすべりました。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ヘンリー3世王女 ベアトリス

2011-02-04 00:06:47 | イングランド王妃・王女
暗い子供時代から幸福な結婚生活へ
ヘンリー3世王女 ベアトリス・オブ・イングランド
ブルターニュ公ジャン2世妃


1242~1275

ヘンリー3世と王妃エリナー・オブ・プロヴァンスには
9人のお子さんが生まれたとされていますが、5人が子供の時に亡くなっています。

ベアトリスには兄にエドワード1世、
姉にスコットランド王アレグザンダー3世妃マーガレットがいます。

           
ベアトリスはボルドーで生まれました。
父王ヘンリー3世の失策続きの政治と、母エリナーの不人気のダブルパンチで
ストレスに悩まされ,悲観的な子供時代を送りました。

また、次から次へと幼くして亡くなっていく子供たちに、一家は深く傷ついていました。
さらに王太子エドワード(後の1世)まで危篤に陥りますが
幸いなことに回復しました。

ヘンリー3世はベアトリスをフランス王と結婚させたくて
ノルウェー王子との縁談を断っていたのですが
結局ブルターニュ公子ジャンと結婚させることになります。

反対派貴族がじわじわと王の力を奪おうとしていて
ヘンリー3世は権力を強固にする必要に迫られていました。
ジャンは広大なリッチモンド伯領を牛耳っていて(後にリッチモンド伯になります)
姉マーガレットを嫁がしたスコットランド王同様強い援軍となり得ます。

ベアトリスとジャンは1260年に結婚しました。

イギリスの人々は、エリナーとサヴォイ人たちに牛耳られるヘンリー3世に不満を覚え
1263年には、王妃エリナーがロンドン市民の暴動で船で逃げ出す事態までおこりました。
翌年にはヘンリー3世の妹エリナーの夫レスター伯による謀反まで招いてしまいます。

王太子エドワードが出来た子で良かったよぉ…というわけで
なんとか王権は回復しましたが、結局ヘンリー3世はこの後出る幕無しになります。

ちなみにレスター伯位はエドワードの弟エドマンドが継ぎました。

ベアトリスは、故郷のゴタゴタはよそに、幸せな結婚生活を送っていたと言われています。
バラバラになっていたご兄弟姉妹も仲が良かったそうです。

しかし、1275年に33歳で亡くなっています。
どうやらこれは6人目のお子さんの出産が原因のようですが、幸いお子さんは無事でした。

ブルターニュ公は、ベアトリスを領地の中で最も大きな
グリニッジのグレイフライヤーズ教会に葬り、自分も死後そこで眠っています。
ジャン2世はベアトリスの死後30年間、再婚しなかったんですよ!!
なんだか、幸福な妃ばかりが早く逝ってしまう気がするのは気のせいかしら?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ジョン王女 エリナー

2011-02-03 02:09:06 | イングランド王妃・王女
神への誓いを覆して再婚
ジョン王王女 エリナー・オブ・レスター
ペンブローク伯ウィリアム夫人/レスター伯シモン夫人


1215~1275

リチャード1世と王妃ベレンガリアの間にはお子様がいなかったので
王位は弟ジョンが継ぐことになりました。

ヘンリー2世には王子たちが5人おりまして、末っ子ジョンには与えられるべき土地が
残されていなかったのでした。
父ヘンリー2世、兄弟、フランス王フィリプ2世入り乱れての争奪戦があり
リチャード1世の死後も甥アーサーとの王位争奪戦がありましたが
1199年、王に即位することはできました。

ジョン王はこの後どんどん領土を失っていくのですが
欠地王(ラックランド)と呼ばれるのは生まれつき領地が無かったことに由来します。

さて、ジョン王と王妃イザベラ・オブ・アングレームの間には5人のお子さんがいましたが
王女は3人、長女ジョアンはスコットランド王アレグザンダー2世妃に、
次女イザベラは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世皇后になりました。

        
三女エリナーがグロースターで生まれた時、ロンドンはフランス軍に占領されていました。

マグナ・カルタの調印&破棄による貴族の反乱、フランス軍侵攻と
慌ただしい日々を送っていたジョン王がニューアーク城で亡くなった時
エリナーはわずか1歳で父親の顔を見たことはありませんでした。

エリナーの兄ヘンリー3世が7歳で即位しましたがフランス軍がぐんぐん迫って来ます。
そんな時、ペンブローク伯ウィリアム・マーシャルを中心とする王党派が
ヘンリーを守ってフランス軍を退けました。
ペンブローク伯はヘンリー3世の摂政も務めます。

エリナーはペンブローク伯の長男で同名のウィリアムと4歳の時に婚約し
9歳で結婚しました。 ウィリアムは再婚で34歳でした。
こ、これは…あからさまな王家にくい込む作戦ではないですかね?

ペンブローク伯は7年後に亡くなります。
エリナーはこの時16歳でしたが、カンタベリー大司教の前で
貞節を守ること(つまり再婚しないってことかしら?) を宣誓しました。

まだお若いのにいいんですか~? と思っていたら、その7年後
レスター伯シモン・ド・モンフォールと出会います。
二人は恋に落ちまして、ウェストミンスター・アベイのキングス・チャペルで
こっそり結婚式を挙げました。

もちろん、エリナーの宣誓のことがあって、この結婚は議論の的になりました。
レスター伯は教皇の許しを得るためにローマまで出向いています。
結局許されたらしくて、レスター伯はヘンリー3世の代理として
ガスコーニュの統治も任されました。

しかし、その後ヘンリー3世がレスター伯を罷免したので反旗を翻し
一時は王&王太子を捕らえて自ら統治に乗り出しました。
結局レスター伯は、救い出された王太子エドワードの反撃に敗れ
1265年にイーヴシャムの戦いで戦死しました。

エリナーはフランスに追放になり、モンタルジ修道院の修道女になりました。
この修道院はレスター伯の妹アミシアが創設して修道院長を務めていました。
知人がいるというのは心強いですね。

追放になった後も兄ヘンリー3世はエリナーを温かく見守り
収入も増やしてあげました。
レスター伯領に関する訴訟を続けることも許してあげました。
ただ、息子さんたちはレスター伯位を継げなかったみたいです。

1275年にモンタルジ修道院でなくなり、葬られました。
夫シモンはイーヴシャムに葬られているので、バラバラになっちゃったのですね。
いつか一緒にしてあげては?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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『ブライヅヘッド ふたたび』前半面白かったのになぁ…

2011-02-02 02:03:32 | イギリス・アイルランドの作家
BRIDESHEAD REVISITED 
1945年 イーヴリン・ウォー

読み進めていくうちに面白くなってくる小説はけっこうありますが
面白くなくなってくる…というのはあんまり経験ないですね。
最初から最後まで面白くないものはあるけどね

貴族や上流家族の零落を描いた物語は大好物です!
でも、短篇で読んだイーヴリン・ウォーの作品の印象と、訳が(苦手な)吉田健一氏、
というのがひっかかり、ずーっと手を出さずにおりました。

ところが、せっかく持ってるし、ってことで読んだら殊の外面白かったんです。

大げさに飾り立てられたような文章が内容に良く合っていて
若干常軌を逸したような登場人物たちは読んでいて楽しく
何より、一家の没落と終焉をこの人たちにどう演じさせるんだろうと考えると
思ったより読むペースが上がってました。

第二次世界大戦中、39歳のチャールス・ライダー中尉が新たに到着した任務地が
若い頃よく知っていたブライヅヘッドという屋敷だったことから回想が始まります。

長い話しなのでかいつまんで書きますね。

チャールスはオックスフォード大学で、マーチメーン侯爵の息子セバスチアンに
魅せられてしまって、彼やその友人たちと親しくなっていきます。

セバスチアンは貴族の次男らしく、優雅で気ままで怠惰な生活を送っているのですが
家族との間に大きな問題を抱えているようでした。
セバスチアンと始終一緒にいるようになったチャールスは
その家族たちとも付き合うようになっていきます。

他人を惹き付けずにはおかない、強くカトリックを信仰する母マーチメーン夫人、
妻子を捨てて女性とイタリアで暮らし続ける父マーチメーン候、
愛人らしからぬ威厳と落ち着きを備えた婦人ケアラ、
自分の世界以外に興味がない兄ブライヅヘッド伯、
美しく冷笑家に見える妹ジュリア、母譲りの信仰を持つ末妹コーデリア。

セバスチアンは次第に酒に溺れ、チャールスとも仲違いします。
マーチメーン候家の財産も世間で言われるほど潤沢ではなく、危機に瀕しています。

これから一家が落ちぶれていく様が描かれていくのかっ! とわくわくしていたのに
後半チャールスの恋愛話みたいになっちゃってちょっとがっかりしました。
セバスチアンは鳴りを潜めちゃって、どうなったかわからないし
マーチメーンの家は相変わらず贅沢三昧だし…
なんか主旨が変わっていっていませんかね? って感じでした。

最後はマーチメーン候が独り舞台的に活躍し、ある意味ではこの一家がエンディングを
むかえたような状態になるわけですけれども、私が期待していたのは少し違いました。

39歳のチャールスが佇む屋敷は軍が借り上げ、各部屋を司令室や食堂にしてしまいました。
美しかった庭や噴水も見る影がありません。
でもそれは没落とはちょっと違う気がするのよね…
できたら壊滅してほしいとまで思っていたわけですが、やはり英国ではあり得ないか?

実は先日、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』
同じような期待感を持って購入したんですが…どうしよう、中途半端に終わったら。
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韓流もいいけどポアロもね!

2011-02-01 22:11:03 | アガサ・クリスティ
ううぅ…
週間マイ・ドール・ハウスで懲りて、分冊物はやめようと誓っていたのに…

買っちゃった、『名探偵ポアロ DVDコレクション』
もはや韓流以外のDVDを観ていないわたくしも、これは観るでしょう!!

1本目は『ナイルに死す』です。
映画のキャストは豪華でしたが、やはりこちらの方が原作に忠実で好きですね。
早く開けて見なければ…と思いつつ開けるのがもったいない。

実はTSUTAYAのDVDが暗号化される前に何本かダビングしていたんですけど
こうなったら集めるしかないでしょお!!

次号は『ABC殺人事件』だそうですよ。
ダビング済みなんですけど待ちどうしいです。

せめて隔週で良かったです…と思っていたら、全65巻(予定)ですって?
2年半ぐらいかかるということでしょうか?
事故にあったりしないよう気をつけなければなりませんね。

『ミス・マープル』のジョーン・ヒクソン版は(ダビングで)全て揃えたんですけど
分冊が出たら買っちゃいそうで怖い…

ディアゴスティーニも講談社もアシェットも、ミス・マープルはもう少し待ってほしい。
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イングランド王ヘンリー2世王女 ジョアン

2011-02-01 02:04:09 | イングランド王妃・王女
            左から、ヘンリー2世、ジョアン、グリエルモ2世です

九死に一生の帰国、そして夫からの脱出
ヘンリー2世王女 ジョアン・オブ・イングランド
シチリア王グリエルモ2世妃/トゥールーズ伯レーモン6世夫人


1165~1199/在位 1177~1189

ジョアンはヘンリー2世とエリナー・オブ・アキテーヌの王女で
リチャード1世の妹、ジョン王の姉にあたります。

アンジューのアンジェ城生まれで、幼い頃は母エリナーの宮廷がある
ウィンチェスターやポワティエで過ごしていました。
       
ジョアンが11歳の時、シチリア王グリエルモ2世からの使節がやってきて
婚約が整い、シチリアに向かいました。
翌年シチリアに到着し、10歳年上のグリエルモ2世と結婚しました。
しかし、グリエルモ2世との結婚生活は4年で終わりを告げます。
1181年にグリエルモが亡くなった時、嫡子はいませんでした(王子一人夭逝)

新王になったタンクレッドは前王妃ジョヴァンナ(ジョアン)を
投獄してしまいました。
たぶん、持参金を返したり年金を払ったりするのを避けたかったんでしょうね。

9年ほどたって、十字軍でイェルサレムに向かうリチャード1世がシチリアに到着、
ジョアンと持参金と返すように要求します。
ついでじゃなくって、もっと早くやって来てあげなよぉ

シラをきるタンクレッドに対してリチャード1世はバニャーラの城を強奪し
さらにメッシーナに攻撃をしかけました。
タンクレッドはリチャードに4000マルクを渡して、ジョアンも帰国させることにします。
お兄様が向こう見ずな荒くれ者で良かったね!

1191年、母エリナーがリチャードの嫁にと
ベレンガリア・オブ・ナヴァールを連れてメッシーナに参上します。

ここからたいした冒険談が始まるんだけど、長くなるのではしょるわね。
母エリナーが帰った後、リチャード1世、ベレンガリア、ジョアンとともに
シチリアを発ちましたが、途中で嵐に遭います。
ベレンガリアとジョアンが乗った船が漂流、リチャードが発見、
キプロスで暴君イサキオスを投獄した後、リチャードとベレンガリアが式を挙げ
3人はイェルサレムのアッコに到着しました。

アッコでリチャード1世は、かなり非道で無礼な振る舞いをしたのですが
側にいてどう思ったのですかね? 妹として止めたりしたんでしょうか?

ともあれ、ジョアンはリチャード1世のお気に入りの妹だったそうです。
それでも政治的に必要とあれば、嫁に差し出すことを躊躇しなかったらしい…
リチャードはイェルサレムのスルタン、サラディンの弟アル・アーディルと
ジョアンの縁談を画策しました。
この縁談はお互いが異教徒との結婚を拒んだため実現しませんでした。

フランス王フィリプ2世もジョアンとの結婚に興味を示していましたが
なにせリチャードとフィリプは十字軍遠征中喧嘩ばかりしていたのでね
それに婚約破棄したフィリプ2世の妹アレの件もありましたし…

結局ジョアンは、31歳の時にルーアンでトゥールーズ伯レーモン6世と再婚しました。
このレーモン6世という人は6回結婚してまして、ジョアンは4人目の妻です。
年は40歳で、若い嫁が良かったのかしら? 持参金目当て?
ジョアンに対してまったく優しくなかったそうです。

ジョアンは次第に夫を恐れるようになり、その上暴動の時にひとりにされたりして
とうとう3人目の子を身ごもったまま逃げ出しました。

とりあえずルーアンの母エリナーのもとへ避難したジョアンは
その後フォントヴロー修道院に入りたいと希望しました。
ジョアンは既婚だし、妊婦でもあったのですが特別に受け入れられました。

やっと安息の日々が迎えられるというのに、やはり怖い思いをしすぎたせいかしら
出産の時に亡くなってしまいました。
生まれた男の子も洗礼の後亡くなっています。

ジョアンはそのままフォントヴロー修道院に葬られました。
50年後、長男のトゥールーズ伯レーモン7世が隣に葬られました。
2歳の時に別れた母子ですが、やっと近くにいられるようになって良かったですね。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』『英国王妃物語』 Wikipedia英語版)
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