まりっぺのお気楽読書

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イングランド王エドワード4世王女 セシリー

2011-02-26 22:25:57 | イングランド王妃・王女
最後は愛を選ぶ!
エドワード4世王女 セシリー・オブ・ヨーク
ラルフ・スクロープ夫人/ウェルズ子爵ジョン夫人/トマス・カイム夫人


1469~1507

セシリーは、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの三女です。

エドワード4世はスコットランドとの同盟を考え、5歳のセシリーを
ジェイムズ3世の王子ジェイムズ(4世)と婚約させました。
しかし争いがおこったために婚約は破棄されました。

セシリーはその後、ジェイムズ3世の弟オールバニー公アレグザンダーと婚約します。
これは兄王ジェイムズに替わって王になろうとしたアレグザンダーと
エドワード4世が手を組んだためです。

この婚約は、エドワード4世が亡くなったことで立ち消えになりました。

         
いくつの時かわかりませんが、セシリーはリチャード3世の支持者スクロープ男爵の息子
ラルフ・スクロープと結婚しました(別のスクロープ男爵説あり)
弟を殺した(かもしれない)男の言いなりになるなんて、悔しいことだったでしょう。

しかし、この結婚はヘンリー7世が即位すると無効を言い渡されました。
ヘンリー7世はお妃候補の中にセシリーも入れていたんじゃないですかね?
リチャード3世の在位は3年なので、14歳~16歳ぐらいの出来事みたいです。

ヘンリー7世が姉エリザベスと結婚した翌年の1487年
忠実なランカスター派の貴族ウェルズ子爵ジョン・ウェルズと結婚しました。
彼はヘンリー7世の母后マーガレット・ボーフォートの異父弟で19歳年上でした。
ここでも新しい王に利用されてしまったわけですね…

        
でもセシリーは拗ねることなく、ロイヤルファミリーの一員として
盛んに宮廷行事に参加していたもようです。
王太子妃になるキャサリン・オブ・アラゴンの教育係も引き受けました。

しかし実生活では、結婚11年目で夫ジョンを亡くし、翌年長女エリザベスを11歳で、
さらに翌年次女アンを9歳で失うという、悲しい思いをしていました。
子供は他にいませんでした。

セシリーは3度目の結婚をすることにします。
相手はリンカーンシャーの地主トマス・カイム(ワイト島のジョン・ケーン説あり)で
恋愛結婚のようです。

結婚はヘンリー7世の許可無く行われました。
そのかわりセシリーは宮廷での役目を辞退することにします。
許してもらえると思いきや、ヘンリー7世は怒ってセシリーの領地を取り上げてしまいます。
自分の地位に不安があるヘンリー7世は、セシリーをまだ利用する気だったのかしら?
後に母后マーガレット・ボーフォートの取りなしで、少しだけ領地を返したもらえました。

結婚後セシリーはワイト島のイースト・スタンデンで静かに暮らしていたようですが
夫も二人の子供も、王族の称号や宮廷での役割は一切与えられず
金銭的な問題も抱えていたみたいです。
夫や子供たちに関する記録もほとんど残っていません。

3度目の結婚から数年後、セシリーは38歳で亡くなりました。
ワイト島のクォーアー・アベイに葬られたという説と
ヨーク公の領地キングスラングリーに葬られたという説があります。

クォーアー・アベイはヘンリー8世がカトリック教会の解体を行った時に破壊されて
セシリーに関する資料も失われてしまったみたいです。

今でもクーデターやテロ、暴動などで歴史的建造物が破壊されたりしますが
二度と同じものは造れないし、なにより計り知れない歴史的資料の宝庫ですから
壊す前によーく考えて行動してほしい…と思います。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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