まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イングランド王エドワード3世王女 ジョアン

2011-02-18 00:06:52 | イングランド王妃・王女
結婚目前、恐怖の病に倒れる
エドワード3世王女 ジョアン・オブ・イングランド


1333頃~1348

ジョアンはエドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの次女でした。

        
ジョアンは5歳ぐらいの時、父エドワード3世に連れられてコブレンツを訪れました。
神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世に会って、帝国議会を見学したりしたわけですが
どうやらジョアンとルートヴィヒ4世の皇子を婚約させる目的があったようです。

ルートヴィヒ4世の妃はフィリッパ・オブ・エノーの姉マルガレーテ
いとこ同士の縁談ということになります。

この縁談は上手くいったようで、ジョアンはエドワード3世が帰国した後も
神聖ローマ帝国の宮廷に残って教育を受けていました。

ところが、フランス王フィリプ4世に対抗するための力を借りたかったエドワード3世を
ルートヴィヒ4世はバッサリ見捨てます。
そこでジョアンも神聖ローマ帝国からイングランドに帰ることになりました。

12歳ぐらいでカスティーリャ王アルフォンソ11世の王子ペドロと婚約したジョアンは
3年後の夏、イングランドを発ちました。
なんでも嫁入り衣装は大変豪華絢爛なものだったそうです。
もちろん、エドワード3世が娘を愛していたからこその嫁入り支度ですが
それよりもイングランドの財力を海外に誇示するのが目的だったようで
その代わりに見えないところはかなり切り詰めた、ということです。

中継地のボルドーに到着すると、出迎えた市長がジョアン一行に
ペストについて警告しました。 たぶん下船を止めたんだと思います。
ジョアンが船出した時、ペストはイングランドに上陸していませんでした。
ジョアンたちは「ペストって?」という感じで警告を聞き入れず
見晴らしの良いジロンドの城を目指して旅を続けました。

しかし、とうとう恐怖を感じる時がやってきます。
一行の中から病人が出て亡くなっていきます。
ジョアンはロレモンという村に避難しましたが、時すでに遅し…でした。
イングランドを発って約1ヶ月後の9月2日、ペストで亡くなりました。

エドワード3世は、ジョアンをイングランドで葬ろうとしたようですが
遺体がイングランドに戻った、あるいは葬儀が行われたという記録は無いそうです。
バイヨンヌ大聖堂に葬られたという説もあれば
ボルドーのプランタジネット家の城もろとも燃やされたと言う説もあります。

ペストに対する処置としてはどちらが正しいのでしょうね?
お城の炎の中に葬られたプリンセンスというのもドラマティックではありますが
証拠はありません。

この後ペストはイングランドにも蔓延します。
随行していた外交官がジョアンの死を伝えにいち早く帰国していますが
もしかしてそれが原因か… (ペストの拡大は貿易船が原因みたいです)

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする