こんな結婚させちゃいけない! 第1弾
フェルディナント1世皇女 エリーザベト・フォン・エスターライヒ
ポーランド王ジグムント2世妃
1526~1545/在位せず
エリーザベトはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの長女で
15人の兄弟姉妹の中で最年長の子供でした。
12人姉妹です!26歳年が離れている末の妹ヨハンナは
トスカーナ大公フランチェスコ1世妃になりました。
1歳の時にはすでにポーランド王子ジグムント(2世)と結婚することになってました。
エリーザベト本人も、もの心がついた時からポーランドに嫁ぐことを知っていました。
17歳の時に7歳年上のジグムントと結婚しました。
実はふたりの結婚の4年前に、ジグムントの姉イジャベラが
フェルディナント1世のハンガリー対立王ヤーノシュに嫁いでいました。
ヤーノシュはすぐに亡くなりましたが、イジャベラは王子を王に立て
摂政としてハプスブルク家に抵抗していました。
東欧・中欧は各国の覇権をめぐって、まだ右往左往していました。
ポーランドはハンガリー&ベーメンをハプスブルク家から奪いたいし
ハプスブルク家はポーランドを手に入れたいし…と虎視眈々状態。
長女として、エリーザベトには大きな期待と責務を背負って嫁いだに違いありません。
しかし、エリーザベトはそれどころじゃなかったのね
まずは嫁姑問題…義母ボナ・スフォルツァはハプスブルク家大嫌い!でして
もともと結婚に反対していました。
宮廷内でエリーザベトを嫌っていることを隠そうともしませんでした。
それから愛人問題…ジグムントには愛するバルバラ・ラジヴィウヴナがいて
彼女との結婚を熱望していたんだけどかないませんでした。
エリーザベトが嫁いできてからもバルバラ命!で、エリーザベトはほったらかし。
また、エリーザベトの世間知らずで引っ込み思案な性格や癲癇の発作などが
宮廷内での評判を下げてしまって、優しくしてくれたのは義父ジグムント1世のみ…
十代の少女には不幸すぎる環境ですよね。
(そういえば妹ヨハンナも、優しく接してくれたのは義父だけだったんじゃ… )
結婚から2年後の1545年、エリーザベトは癲癇の発作が重なり健康が悪化しました。
ジグムントったら「生きてるうちに…」ということか、彼女を一人残して
持参金を手に入れるためクラクフに向かいました。
エリーザベトは寂しく病と闘った末18歳で亡くなりました。
ビリニュス大聖堂に葬られたわけなんですが
棺の位置も夫の叔父アレクサンデル2世の隣という、なんだかわけのわからない場所じゃない?
祖父ウラースロー2世の弟なので一応親族ではあるんですけどね。
17歳から18歳(19歳まで1ヶ月足らず)という、少女が輝き始める時に
こんな思いをさせちゃいけない!!
国を治めるための政略も大切でしょうが、バリバリ政治向きの野心家少女ならまだしも
こんなに気の弱い子を… 娘の特性を考えて嫁にだしましょうよ。
(参考文献 Wikipedia英語版)
フェルディナント1世皇女 エリーザベト・フォン・エスターライヒ
ポーランド王ジグムント2世妃
1526~1545/在位せず
エリーザベトはフェルディナント1世とアンナ・フォン・ベーメンの長女で
15人の兄弟姉妹の中で最年長の子供でした。
12人姉妹です!26歳年が離れている末の妹ヨハンナは
トスカーナ大公フランチェスコ1世妃になりました。
1歳の時にはすでにポーランド王子ジグムント(2世)と結婚することになってました。
エリーザベト本人も、もの心がついた時からポーランドに嫁ぐことを知っていました。
17歳の時に7歳年上のジグムントと結婚しました。
実はふたりの結婚の4年前に、ジグムントの姉イジャベラが
フェルディナント1世のハンガリー対立王ヤーノシュに嫁いでいました。
ヤーノシュはすぐに亡くなりましたが、イジャベラは王子を王に立て
摂政としてハプスブルク家に抵抗していました。
東欧・中欧は各国の覇権をめぐって、まだ右往左往していました。
ポーランドはハンガリー&ベーメンをハプスブルク家から奪いたいし
ハプスブルク家はポーランドを手に入れたいし…と虎視眈々状態。
長女として、エリーザベトには大きな期待と責務を背負って嫁いだに違いありません。
しかし、エリーザベトはそれどころじゃなかったのね
まずは嫁姑問題…義母ボナ・スフォルツァはハプスブルク家大嫌い!でして
もともと結婚に反対していました。
宮廷内でエリーザベトを嫌っていることを隠そうともしませんでした。
それから愛人問題…ジグムントには愛するバルバラ・ラジヴィウヴナがいて
彼女との結婚を熱望していたんだけどかないませんでした。
エリーザベトが嫁いできてからもバルバラ命!で、エリーザベトはほったらかし。
また、エリーザベトの世間知らずで引っ込み思案な性格や癲癇の発作などが
宮廷内での評判を下げてしまって、優しくしてくれたのは義父ジグムント1世のみ…
十代の少女には不幸すぎる環境ですよね。
(そういえば妹ヨハンナも、優しく接してくれたのは義父だけだったんじゃ… )
結婚から2年後の1545年、エリーザベトは癲癇の発作が重なり健康が悪化しました。
ジグムントったら「生きてるうちに…」ということか、彼女を一人残して
持参金を手に入れるためクラクフに向かいました。
エリーザベトは寂しく病と闘った末18歳で亡くなりました。
ビリニュス大聖堂に葬られたわけなんですが
棺の位置も夫の叔父アレクサンデル2世の隣という、なんだかわけのわからない場所じゃない?
祖父ウラースロー2世の弟なので一応親族ではあるんですけどね。
17歳から18歳(19歳まで1ヶ月足らず)という、少女が輝き始める時に
こんな思いをさせちゃいけない!!
国を治めるための政略も大切でしょうが、バリバリ政治向きの野心家少女ならまだしも
こんなに気の弱い子を… 娘の特性を考えて嫁にだしましょうよ。
(参考文献 Wikipedia英語版)
まりっぺさま、みなさまこんにちは。プリンセスシリーズまさかのハプスブルク編でとても楽しく拝見させていただいています(^^)ハプスブルグ家は多産ですから皇女の数が尋常でなく、一人一人紹介するのは大変ですよね。今回のエリザベート皇女の下に控える大勢の妹達の紹介など特に大変そう。けれど、フェルディナンド1世の皇女達の詳細は前から気になっていたのですごく楽しみに記事を待っています(笑)。
追伸・今回のハプスブルグプリンセスシリーズは皇女だけということですが、フェルディナンド1世の三男カール太公の大勢の娘達は紹介は無いのですよね?こちらも女の子多いので気になっていたので(´`)。
お久しぶりです。
今回は皇女だけに絞ったのですが、たしかにハプスブルク家にはオーストリア大公(しかも、内オーストリア大公と前オーストリア=ティロル大公)トスカーナ大公などなど裾野が広くて、しかも各々が絡み合っているだけに、他の家系も気になるところです。
次回はそのへんも探っていきたいと思っていますが、その前にオーストリア大公妃をやらなけりゃ…
現在イギリス王室が映画や御成婚などでおおいに盛り上がってますが、ハプスブルク家やブルボン家などの、大室好きには欠かせない家の名が聞かれないのが寂しいですよね