昭和36年6月に福岡県福岡市で杉野泰造氏は86才で逝去になられました。と申しましても杉野泰造氏のお名前をご存知の方はご親戚の方以外にはもう居られないかと思います。しかし、この杉野泰造氏は明治の末から大正、昭和の北九州地域の建築業界に於いては優れた業績を残された人として評価されています。
先日泰造氏の孫さんである杉野壽信さんにお会いした時、泰造氏の業績を纏めたものはありませんか、とお尋ねしましたところ昭和59年に西日本新聞に連載された「墨指しと烏口」(すみさしとからすぐち)のコピーを送って来られました。この新聞の連載記事によって杉野泰造氏の卓越した業績と人生を知ることができました。壽信さんのご提供に有難く感謝申し上げます。
泰造氏は戸籍名は常次となっています。杉野嘉平、ナツを両親として明治10年に越智郡岡山村口総(現大三島町口総)に誕生。長じて今治で大工の弟子入りをし年季奉公後は逓信省の職人となり庁舎などの建築に携わり、その頃来島海峡に設置された灯台なども手がけられたそうです。明治38年頃(28才)に福岡県の博多の建築会社岩崎組から要請があったのでしょう博多に移住し岩崎組の棟梁となられました。このことは泰造さんが早くから西洋建築の技法をも習得に努めておられたことによるものと推察します。ですが本格的に西洋建築について独習を始められたのは博多に移られてからのようです。
建築家三条栄三郎氏や妻木頼黄博士などの設計による官庁舎建築の棟梁として目覚ましいお仕事をされておられます。中でも明治45年着工、大正3年に完成した旧福岡県庁庁舎の建築は泰造氏を代表する西洋建築であったと云えましょう。
旧福岡県庁庁舎は妻木、三条両氏による設計を泰造氏が各部の原寸仕様図を作図して木工、石工、左官などの仕事が施工し易いようにされたのでした。その図面、五百枚を越える図面が博多の杉野家に保存されていたので。今はそのすべてが福岡県庁に寄贈されて永久保存されているとのことです。旧県庁は惜しくも解体されたのですが、県庁建設の棟梁を務めた泰造さんの建築学上においても非常に貴重な資料として原寸設計図は保存されています。
杉野泰造さんが建築された木造西洋建築のほとんどは戦争による空襲爆撃や時代の推移によって解体され、現存しているものは残念なことにないようで、写真などでしか知ることが出来ません。
万福寺のお内陣中央に据えられている須弥壇(しゅみだん)、宮殿(くうでん)は大正11年に博多の杉野泰造氏がご寄付下さったのでした。須弥壇の横巾10尺、奥行き9.5尺、屋根棟までの高さ1丈6尺と云う末寺としては最大規模と云えます。
今に伝承され遺されている豪壮な宮殿、須弥壇に泰造氏のご人格の一面と強い望郷の想いを知り得ます。
現本堂を施工下さった亀山建設の亀山義比古氏も襖絵をお描き下さった中島千波画伯もご本尊阿弥陀如来さまをご安置申し上げているこの須弥壇、宮殿をしばしの間拝観されておられました。きっとこれに相応しいものをとお考えになられたようにと伺えます。
泰造氏は昭和36年に博多で逝去になられ、ご遺骨は故郷の大三島口総、田中(たちゅう)の墓地に埋葬されています。一昨年が丁度50回忌の年でした。
万福寺の宮殿
同 須弥壇
両脇に階段があり、宮殿の後ろの壁まで約2尺ほど空いています。
大正9年広島高等師範学校の本館を杉野泰造氏が施工の為広島滞在中に寄付を決意されたと伝え聞いております。