法語カレンダーも早4月がめくられています。今月は桜カラーのペイジです。
法語は先月に続いて今月も『唯信鈔文意』から選ばれています。
釈迦は慈父(じぶ) 弥陀は悲母(ひも)なり
註釈版聖典のp702のご文を紹介しておきます。聖典をお持ちの方はお読みください。
誓願真実(せいがんしんじつ)の信心をえたるひとは、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の
御ちかひにをさめとらせたまふによりて、行人(ぎょうにん)のはからひにあらず、
金剛(こんごう)の信心をうるゆゑに憶念自然(おくねんじねん)なるなり。
この信心のおこることも釈迦の慈父(じぶ)、弥陀の悲母(ひも)の方便(ほうべん)に
よりておこるなり。これ自然(じねん)の利益(りやく)なりとしるべしとなり。
はからい心の殊の外強いこの私をどのようにして気づかさせ、救わずにはおかないと真如よ
り南無阿弥陀仏の声の如来さまとなって来って下さってあります。お釈迦さまも阿弥陀さま
も一如と受け取らせていただいておりますが、しいて云えばお釈迦さまは、気ままで勝手
な煩悩支配に安住しているこの私に真実への道を示し知らしめて下さいます。それは涙が出
る、血の出るようなお仕事です。
阿弥陀さまの御はたらきは、この私が如何に背き逃げようとも、抱き続け「摂取不捨」(せ
っしゅふしゃ)と涙して下さいます。
この私が一声「南無阿弥陀仏」(ナマンダブツ)と渋々お称えすれば、お釈迦さまも阿弥
陀さまもともに「ナマンダブツ」とお称えになられます。このような世界を「憶念自然」
(おくねんじねん)と申されているのでしょうか。
徳力さんの版画図は29才の親鸞聖人が六角堂の100日参籠に続いて東山吉水の法然聖人の禅房を聴聞に訪ねられた時の模様が版画されています。
法語は先月に続いて今月も『唯信鈔文意』から選ばれています。
釈迦は慈父(じぶ) 弥陀は悲母(ひも)なり
註釈版聖典のp702のご文を紹介しておきます。聖典をお持ちの方はお読みください。
誓願真実(せいがんしんじつ)の信心をえたるひとは、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の
御ちかひにをさめとらせたまふによりて、行人(ぎょうにん)のはからひにあらず、
金剛(こんごう)の信心をうるゆゑに憶念自然(おくねんじねん)なるなり。
この信心のおこることも釈迦の慈父(じぶ)、弥陀の悲母(ひも)の方便(ほうべん)に
よりておこるなり。これ自然(じねん)の利益(りやく)なりとしるべしとなり。
はからい心の殊の外強いこの私をどのようにして気づかさせ、救わずにはおかないと真如よ
り南無阿弥陀仏の声の如来さまとなって来って下さってあります。お釈迦さまも阿弥陀さま
も一如と受け取らせていただいておりますが、しいて云えばお釈迦さまは、気ままで勝手
な煩悩支配に安住しているこの私に真実への道を示し知らしめて下さいます。それは涙が出
る、血の出るようなお仕事です。
阿弥陀さまの御はたらきは、この私が如何に背き逃げようとも、抱き続け「摂取不捨」(せ
っしゅふしゃ)と涙して下さいます。
この私が一声「南無阿弥陀仏」(ナマンダブツ)と渋々お称えすれば、お釈迦さまも阿弥
陀さまもともに「ナマンダブツ」とお称えになられます。このような世界を「憶念自然」
(おくねんじねん)と申されているのでしょうか。
徳力さんの版画図は29才の親鸞聖人が六角堂の100日参籠に続いて東山吉水の法然聖人の禅房を聴聞に訪ねられた時の模様が版画されています。