万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

5月の法語

2012年04月30日 | Weblog


4月末の連休は終わり今日明日と住職としては一休みです。しまなみ海道の自転車通行料が連休中無料と云うこともあってかサイクリングの集団がいつもより多いようです。

 5月の法語は『教行信証』行巻からのお言葉なのですが、お正信偈のお言葉として耳慣れているお言葉です。比叡山横川(よかわ)の源信和尚(かしょう)のお念仏のお領解(りょうげ)をおまとめになられたヶ所のご文で、原文は、

  極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)  極重の悪人はただ仏を称すべし

 「極重悪人」とは一体どのような人のことなのでしょうか? 『歎異抄』の最も知られているお言葉「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」と善人が往生するのであるから悪人はなおさら往生できるのです、と親鸞聖人は自信をもって言い切っておられます。このように申されている「悪人、極重悪人」は重要な意味を持っていますが、それでは一体どのような人を「悪人、極重悪人」と云われているのでしょうか。悪人に対する語は「善人」ですが、源信和尚や親鸞聖人が問題にされている「善悪」の基準はどこまでも仏道修行をし善行を積むことが出来ている人を「善行の人」と申されています。それに対して「悪行の人」とは煩悩中心に我欲に引かれて日暮をしている人のことを指しています。
 親鸞聖人は「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」と善根功徳を積善することが遠く及ばない身であることを慨嘆され、そのような私を知り抜いて下さり、地獄一定の私に寄り添い歩んで下さって、自らの名をもって「ナモアミダブツ!」と呼んで下さってある阿弥陀さまに信順させていただく他に道はありません。と申されました。
 臨終の最後の最後まで煩悩を起こし続けることしか出来ない私 すなわち自らの力で善根功徳を積みさとりを開き仏になることから遠く離れている私には「ナモアミダブツ」のみ名をお称えし、仏願に信順させていただく日暮として浄土真宗と云う道をご開顕下さいました。

 ですから親鸞聖人が「悪人、極重悪人」と申されているのは出家の道ではなくて、生涯所帯(家族)を持った日暮で終わる私ども在家止住の身に「大丈夫!必ずお浄土へ迎え取るよ!」のお呼び声に覚醒された私には煩悩そのものの私であった、悪人とは私のことであったと云う目覚めが自然と起こって参ります。煩悩を起こし続ける日々でありながらも堂々とお浄土への道が展開されておりますのは唯偏に「ナモアミダブツ」のお名号が寄り添うていて下さるからなのです。

 後に続く正信偈のご文を上げておきます。在家仏教(煩悩の日暮)の真骨頂とも云えるご文です。 

 極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)  極重悪人はただ仏を称すべし。
 我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅうちゅう)    われまたかの摂取のなかにあれども、
 煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)   煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、
 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)     大悲、倦(ものう)きことなくして常にわれを照らしたまふ。
                                         (注釈版『浄土真宗聖典』P207)
 
コメント
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