平成4年頃の和信会メンバー
(2列目の一番左が菅 寛先生)
ただ今休会中なのですが、万福寺の壮年の方々の聞法の会に「和信会」と名付けられている会があります。この会の発足は終戦直後の昭和21年になるようです。約10年くらい活動があって休会していましたものを昭和60年復会いたしました。その復会に力を注いで下さり、リーダーとなって下さったのが宗方の菅 寛(かんすすむ)先生でした。先生は世界大戦に出征され「インパール作戦」と云う過酷極まりない戦地に赴かれ九死に一生と云うような状況下から復員されたのでした。戦後宗方へ住まいされて小学校の教職に就かれて定年まで勤められ、その後簡易郵便局のお仕事、そしてご法義のお世話を下さいました。
寛先生の真摯なご聞法のご縁は、インパールへの従軍に機縁があったように伺えます。
食料や弾薬の支援もなく何万と云う兵士は行軍を続け、ビルマのインド国境まで辿り着いてほとんど戦わずして退却をすると云う無益な死の行軍であったと語られました。その退却中に沢山の戦友が次々と亡くなって行く、郷里が島根の或戦友の最後は胸のポケットに入れていた「懐中名号」を寛先生に出してくれと云って、それを開けてあげると静かに手を合わせ、お念仏を称えながら息絶えたのです。その時のことが私の脳裏から忘れることがありません。と、
平成7,8年頃の東京千鳥ヶ淵墓園で本願寺が行っている「戦没者追悼法要」にお参りをされてその時の喜びを語ってくださいました。
先生は生涯、自らを厳しく律っして、お聴聞をされる方でした。去る3月29日に92才と云う人寿を全うされご往生されました。30日正午より葬儀、出棺後、先生のご遺体はただちに広島大医学部へ献体の為迎えられて行かれました。尊い方であられました。
「和信会」の和信とは聖徳太子制定の「十七条の憲法」の第一条、「和らかなるをもって貴しとなす」の「和」と親鸞聖人のお示し下さいました「信心」、「まことのこころ」の「信」を仰ぐ意味から「和信」と名付けたのだと前住が語っていました。そう云う意味から万福寺の「寺だより」も「和信」としております。