万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

望月圭介氏肖像画

2009年11月24日 | Weblog
大崎島でお参りをしたお家に菅恵美子さんと云われる90才になられる方が住んでおられます。望月圭助さんのことをお尋ねすると、私が女学校の頃帰郷されたことがあり学校からお迎えに参りました。道に新しい砂が敷き詰められていました。大臣が道をお通りになられ、私たちはその間ズットと頭を下げていました。ですから望月大臣がどんなお顔の方であられたのか見ておりませんと話されました。大崎島から代議士となり大臣までなられた望月圭助さんを郷里では神様の次に偉大な人と捉えられていた様です。
 私(住職)に澄子と云う叔母がいました。矢張り大正7年かの生まれで、女学校の修学旅行で東京へ行ったようです。その頃東京には私の母や澄子の叔父鷹谷俊之氏が居て、高楠順次郎博士を助けて武蔵野女学院の経営に当たっていました。その鷹谷俊之叔父が澄子を出迎えてくれて学士院会館へ連れて行ってくれたのだそうです。その会館の豪華な応接室に高楠博士と望月大臣がいて鷹谷叔父は「これは私の姪子です」と紹介されたのだそうです。15、6才の澄子叔母はガチガチに緊張してしまったことをいつも話していました。それでも高楠博士と望月大臣にお会いしたことを随分と誇らしく思っているように聞こえました。
その澄子叔母も昭和50年に他界いたしましたが・・・・、望月邸を訪ねてそれらのことなどを懐かしく回想したことです。
 画像は望月邸に掛けられていた望月圭助大臣の肖像画。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

望月邸内部

2009年11月24日 | Weblog
望月東之助には4男4女の子女がありその多くは政治家を志したとのことですが、中でも3男の圭助は中央政界で活躍し逓信大臣、内務大臣等を歴任し、その人情の厚い人格から温情大臣と称されたと伝えられています。
 大三島の大見のお生まれで多田無心(院大)さんと云われた日本画家が居られましたが、この無心さんが生前に拙寺に来られた時に、「私は望月圭助先生に大変お世話になりました。東京の先生宅の書生を務めさせて貰いながら美学校に通わせて頂きました」と、話しておられました。多田無心さんの描かれた達磨絵は素晴らしいものばっかりで、達磨の絵を描かれた時にはお礼を貰われなかったそうです。このようなお徳は望月圭助先生の薫陶が感じられます。
 画像は望月家の母屋内部のたたずまい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

望月邸

2009年11月24日 | Weblog
11/23勤労感謝の日、お隣の島大崎上島(広島県豊田郡)へ法務の為渡りました。カーフェリーで15分くらいで着く距離です。昔、機帆船が運送の主力だった頃、大崎島は中継基地、船泊まり港としてそれはそれは隆盛した島でした。木造船の頃からの造船所が今でも多く稼動しております。
 法務を済ませて帰りのフェリーの時間まで数十分ありましたので東野町にある「望月邸」(現在解体修復されて海と島の歴史資料館となっています)へ寄ってみました。望月家は江戸時代から明治にかけて回船問屋として活躍し豪商として冨を得たとのことで、この豪邸は望月東之助によって明治8年に建築されたとのことです。島としては敷地も広く豪壮な母屋に長屋門、蔵、茶室などが設けられている古民家です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする