大崎島でお参りをしたお家に菅恵美子さんと云われる90才になられる方が住んでおられます。望月圭助さんのことをお尋ねすると、私が女学校の頃帰郷されたことがあり学校からお迎えに参りました。道に新しい砂が敷き詰められていました。大臣が道をお通りになられ、私たちはその間ズットと頭を下げていました。ですから望月大臣がどんなお顔の方であられたのか見ておりませんと話されました。大崎島から代議士となり大臣までなられた望月圭助さんを郷里では神様の次に偉大な人と捉えられていた様です。
私(住職)に澄子と云う叔母がいました。矢張り大正7年かの生まれで、女学校の修学旅行で東京へ行ったようです。その頃東京には私の母や澄子の叔父鷹谷俊之氏が居て、高楠順次郎博士を助けて武蔵野女学院の経営に当たっていました。その鷹谷俊之叔父が澄子を出迎えてくれて学士院会館へ連れて行ってくれたのだそうです。その会館の豪華な応接室に高楠博士と望月大臣がいて鷹谷叔父は「これは私の姪子です」と紹介されたのだそうです。15、6才の澄子叔母はガチガチに緊張してしまったことをいつも話していました。それでも高楠博士と望月大臣にお会いしたことを随分と誇らしく思っているように聞こえました。
その澄子叔母も昭和50年に他界いたしましたが・・・・、望月邸を訪ねてそれらのことなどを懐かしく回想したことです。
画像は望月邸に掛けられていた望月圭助大臣の肖像画。
私(住職)に澄子と云う叔母がいました。矢張り大正7年かの生まれで、女学校の修学旅行で東京へ行ったようです。その頃東京には私の母や澄子の叔父鷹谷俊之氏が居て、高楠順次郎博士を助けて武蔵野女学院の経営に当たっていました。その鷹谷俊之叔父が澄子を出迎えてくれて学士院会館へ連れて行ってくれたのだそうです。その会館の豪華な応接室に高楠博士と望月大臣がいて鷹谷叔父は「これは私の姪子です」と紹介されたのだそうです。15、6才の澄子叔母はガチガチに緊張してしまったことをいつも話していました。それでも高楠博士と望月大臣にお会いしたことを随分と誇らしく思っているように聞こえました。
その澄子叔母も昭和50年に他界いたしましたが・・・・、望月邸を訪ねてそれらのことなどを懐かしく回想したことです。
画像は望月邸に掛けられていた望月圭助大臣の肖像画。