詩の現場

小林万利子/Arim 「詩のブログ」 詩をいつも目の前に
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詩史を踏まえての雑感〜日本のモダニズムの頃のことなど〜

2018-05-15 | 詩を歩く
Twにて、イマジズムの詩というタグ付けで詩を発信していますと、時々、ご質問を受けることがあります。個別にお答えすることが度々ありますが、noteに書いておこうと思いました。
あくまでも、私の興味が座標軸となる詩史の大まかなまとめと雑感です。学生の頃と違って、資料が手元にないので、論考ではなく、お茶飲みながらの雑談だと思って、、どうぞお読みください。


日本の詩は、短歌、俳諧(俳句)、自由詩に大別されます。
“自由詩“はいかなる形からも解放され、言葉の文学として、新しく生まれ歩き出したのだと思います。

明治の「言文一致運動」。自由詩にとっても言葉の獲得の歴史です。
自由詩の始まりは訳詩からでした。上田敏の「海潮音」は記念碑です。島崎藤村が賛美歌の訳者の詩を転用したり、自由な言葉を詩に取り込み、口語詩への道を歩き始めました。

三木露風や北原白秋等の「象徴詩」の時代があり、その後、萩原朔太郎が「口語自由詩」を確立します。現代の詩の祖と言えると思います。

朔太郎からは、西脇順三郎(モダニズムの流れへ)と三好達治(叙情派四季派の流れへ)が分かれて行くと考えています。

当時イギリスから戻った西脇順三郎は、モダニズムを持ち帰りました。昭和初期の日本のモダニズム運動を進める春山行夫らの若い詩人たちに大歓迎されます。

またイマジズムの詩人としての業績は、なんと言っても北園克衛でしょうか。エズラ・パウンドとの交友も有名です。
瀧口修造の活躍もあり、昭和初頭から戦前が、詩のモダニズム全盛の頃でした。

シュールレアリスム、ダダ(高橋新吉)…。外国のモダニズムの芸術運動が、昭和初期、日本の詩人たちに大きな影響をもたらしました。

しかし残念なことに、戦争の時代に入り、日本の詩から、モダニズムは姿を消します。

文学者、詩人も、転向を余儀なくされ、戦争加担詩か、沈黙か、皆作風が変わります。
そして、「歴程」(草野心平 渋沢孝輔 吉原幸子ら)は戦前戦後と続きましたが、終戦後は、「列島」(関根弘、長谷川龍生ら)や「荒地」(鮎川信夫 田村隆一 三好豊一郎 黒田三郎)から、さらに重要な詩人たちが出ています。

“荒地“、この誌名はもちろんT.Sエリオットの「荒地」からとっています。敗戦後の荒涼とした場所から立ち上がっていく、そんな詩の出発に見立てたのだと言われています。

尚、戦前の叙情派四季派(三好達治 立原道造ら)からは、戦後「櫂」が生まれ、谷川俊太郎、茨木のりこ、大岡信らの多数の重要な詩人が今に続きました。

大きく分けて、戦前の以下の流れは→右の戦後詩のように位置づけられています。(他にももちろんありますが。)
・モダニズム詩 → 「荒地」グループ
・プロレタリア詩 → 「列島」グループ
・四季派の叙情詩三好達治  →「櫂」グループ
非常に主要な詩の大雑把な流れです。この他にも重要な詩誌のグループや著名な詩人はたくさんいます。

そして、60年代以降の現代詩の難解な方面への移行。それは詩にとっての経験であったと思います。ただ、民衆の気持ちからは離れて行きます。

今でも、好きな日本の詩人は誰ですか?という質問に、宮沢賢治や中原中也や金子みすゞと言われることに抵抗があります。
彼らが優れた詩人であることは間違いありません。ただ、今を生きている詩人ではないのです。彼らが今を生きていたら、もっと鮮烈な言葉を私たちに共有してくれたかもしれません。時代の言葉として、ヒップホップだったかもしれないし、リーディングや音楽だったかもしれない。

好きな詩人の質問に、谷川俊太郎さんの名前が出てくることで、少しホッとしますが、ただ現実は、谷川さんさえ知らない一般の方も多いのです。

人が心に享受し共有していく言葉、というシンプルに詩が担うべき役割を、現代詩は放棄してきた一面があると思います。その代わり日本人は“歌“を共有財産に持ったのだと思っています。
ユーミン、陽水、サザン、ドリカム等々の歌の言葉を、日本人は自分の時間に取り込んでいったように思います。

現代詩の歴史を細かく書き出すと、どんどん長くなってしまうので、ダイジェストで途中に致しますが。

ところで、私が今関わっている日本の自由詩というのは、このような歴史があることからも言えるかと思うのですが、西洋のあり方とは少し違うのかなと思っております。
あえて冒険的な言葉を使ってしまうなら、言語や固有の思想を、形としては、踏襲しない文学形式。これが日本の今までの現代詩の歩みであるとも思うのです。

ただ、見えない部分の踏襲があるとすれば、
それは唯一、私は日本の詩歌の伝統に(それは歌謡曲まで)続いているものは、“もののあわれ感“だと思っています。
四季の移ろいの中で、海に囲まれた島国で培われた情趣、哲学と言ってもいいのだと思いますが。

西脇順三郎は、それを永遠という言葉で捉えました。永遠ではない人間の、永遠への思慕です。淋しさが漂いますが、それは硬質の叙情に歌うことで、至上の美に変わるものですね。

日本人である、そこに立って、言葉を発して行く時に、もののあわれの意識、それはある時は無常であるが、決してなくなるものでないという、宇宙的な禅的な視点を合わせて、俯瞰していく立ち位置。静かにそこの地下水脈に届いていれば、日本の詩歌の水脈に続いていられるように感じます。

ところで、最初に戻りますが。
私が、現在使う“イマジズムの詩“という意味ですが。
私の思うかつての北園克衛のイマジズムの詩は、実験的で前衛の騎手でした。どこまでも芸術的で、硬質の叙情が光っていたと思います。奇抜な言葉や形式の新しさへの追求があり、素晴らしい詩の仕事だったと思います。

私がイマジズムの詩を、と使う時、この北園克衛の仕事が頭の隅に浮かびますが、モダニズムのイマジズムを踏襲するものではないです。言葉に絵画的でビジュアル性があって、硬質の叙情を目指しますが、形式主義にならない、新しい詩でありたいと思う立場なのです。

それにしても、失われた時代ですが、私には戦前のモダニズム全盛の頃が、詩のひとつの憧れの時代でもあります。

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エッセイ)無記名の美

2018-05-15 | 詩を歩く
無記名の美ということを考える。
それは、禅的な美かもしれないし、宇宙的な美と言い換えてもいいのかもしれない。

自然の前に人が立ち、美しいと感じた時に、美は生まれる。自然も美の形もそこにあったものかもしれないが、その前に立ち、心動かすものに出会わなければ、美は発見されない。

そして美の本質は、無記名なものであるのかと思う。命の根源に繋がっていく美。見かけは何ものからでも始まる美。ちょうど頂上を目指す山登りのように。そこには、名前がないのかもしれない。

私たちは、名ざせないものに不安を覚える。いや名指すことによって、わかり、ことによったら所有できるもののように感じる。

掴むことの出来ない概念は、共有することは出来る。時間を共有するみたいに。だが、風は所有できない。にもかかわらず、風にまで名前をつけて美を捕まえたくなる。

枯れ朽ちた冬の植物の形は、もはや生き生きとした色彩のある花や葉をつけてはいない。しかし、植物が、“私はかつて紫陽花であった“と言う必要は無い。植物の命の脈が流れ続けている。すべてが土に崩れ落ちてしまっても、そこには存在の無形の温床が残っているようにさえ感じる。それは対象は無記名の美であるが、その美を記憶する人間がいる限り、形なきものの残す記号の奥に、永遠に連なる時間の根へ繋がっていく。

川は名前がつく。しかし川を作るのは水の流れである。水は留まらない、風も然り。流れゆく形なき残照に名前をつける。美は表面にあるものの向こうに匂いたっている。

考えてみれば、ずっとあり続ける同じ形は自然の中には無い。夕焼けも美しい色を翻して行ってしまうのである。美の王宮に戻る、そんな感じである。移ろいゆくものの美。それは増減のない宇宙的な美。“その時“がすべてに通じている禅的な美、と思うのだ。


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ことばにしなければいけないことが…

2016-12-12 | 詩を歩く
ことばにしなければいけないことがたくさんあるのに、してこなかったことがなんて多いのだろう。時間はあっという間に押し寄せて来て、その時を連れ去っていく。心に残る"その時"が置いていった卵は、手のなかで時々孵ろうとするのだけれど、そのとき、そこには待っていてくれる人はいるのだろうか。

現実には、今さら…、のタイミングになりながら、詩や歌や絵やがある理由が、そこにあるのかもしれなくて。

時間はいつも大切なものを連れてきているけれど。クイズに答えるような、即決即断のような時間もあれば、でも大切なことを孕む時間は、もっとたゆたいの中に育てていきたいとも思う。時の移ろいの景色の中を歩いてたっぷりとした姿になって、届けたいこともあって。


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綺麗ばかり、追いかけていることが多いのだけれど、

2016-12-12 | 詩を歩く
綺麗ばかり、追いかけていることが多いのだけれど、時々立ち止まってみる。そそくさと通り過ぎてしまいがちな、目を引かぬものたちの不思議に、足を止めて見たくなる。

…綺麗とか綺麗じゃないとかを見つける場合、それはある角度であって、タイミングであるのだと思う。そのものとの出会いは、一瞬の閃きのようなもの。説明ではなくて、バランス感覚が大きいのだと思うけれど、その後は、経験によって記憶された個人の感慨や主観によるものだと思う。

…物と主観、そこに生まれる印象の狭間に立ち返り、無意識裡に紛れてしまおうとする控えめなモノたちの神秘に触れたい、そんなふうに思う時がある。綺麗なもの、綺麗じゃないものと一瞬で判断しない世界には、何が見えてくるのだろう。興味が沸くのだ。

それは、そのもののカタチが浮き上がってきて、とても細胞的なミクロ的な世界で、時間の移ろいを感じることかもしれないし、逆に宇マクロな宙的な視点から、刹那の美を見つけられることかもしれない。…

…物の綺麗さには、善悪の価値はないと思うのだけど。…茶色くくすんだ落ち葉を一枚手に取ってみる。葉脈が深く溝を切り、葉の形は臨界に深淵なる線を刻み、外界と葉をくっきりと隔てて、そこに流れる生命の時間を造形している。不透明な色と形を持ったモノは、外界にとっては平等の造形の痕跡なのだと思い。

…綺麗の外側には、なんて多くのモノたちがあることか…。綺麗が引き立つ背後には、大きなバックグラウンドが横たわっているのだと感じる。そんなふうに思えたら、またなんだか安心して、綺麗なものを見つけたくなり。…"綺麗"を摘み取る時には、横にはその他のモノも一緒に呼吸している、そう感じて。



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コトバの性質から

2016-12-12 | 詩を歩く
畢竟、コトバとは外部との間を繋ぐもの、極言すれば「他者のもの」である。自らのうちで完結してしまうことを許さない詩形、特に短歌や俳句の、常に開かれゆくことを運命づけられた性質に触れるたびにこの感は強まる。

「他者のもの」であるという言葉の認識を、大事にしたい。"開かれゆく"言葉。そうありたいな…。



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風の記憶

2016-12-12 | 詩を歩く
悲しい言葉を、悲しいまま書いてあるのを見ると、どうも駄目なのです。そうではないよ、、と繋ぎたくなるのです…

記憶は、塗り替えられていくものだしたら、それは美しい色で塗り替えられた方がいいのです。風は良い記憶も悪い記憶も、何かを連れ去っていくものだとしたら、どうぞ、悪い記憶を持ち去ってもらいなさい。良い記憶は取っておきますと、風に言いなさい。風は案外、言葉がわかるようなのです。

鳥がよく風の合間を縫って飛んで来るのですが、風は自分の透明な波に、鳥を乗せて飛行するのです。人間は、だんだん羽を無くしてきましたが本当は持っていました。その記憶は深い眠りの中に時々目覚め。風は誘いにきます。
羽の記憶を蘇らすために、自由な鳥を連れて吹いてくるのです。



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今日を生きていくのに、優しい言葉がいい…

2016-12-12 | 詩を歩く
今日を生きていくのに、
優しい言葉がいいと思うのだけれど…。
道端の草に目がいくのも、
空に鳥の影を探すのも、
人間に許されたそんな理由(わけ)があって。

言葉に翻訳するのは、人間だけなのかな、
と思ったりするが。実は鳥たちも、
"もう少しだから、頑張って!" なんて
話しながら飛んでいるのだろうか。
言葉って、誰かに届けたいものだから。

果樹農家の多い場所に住んでいて、
よく放送が流れる。
スピーカーを通した言葉というのは
音になって空気の中に散乱し
方角によっては全く聞き取れない。
私は農家でないので、霜予報や農薬の話も、
ただ聞いているだけなのだけれど。
言葉の先にはいつも耳を傾ける人達が
いるのだと気づく。生きていくのに

どんな言葉がお好きですか。
お茶しましょうか。
なんて、素敵な言葉の1つかもしれないね。
"貴方"のことを大切に思いながらね。
暖かいコーヒを淹れながら、
お互いにかけあう言葉…。
時々言葉を無くしている時は、
猫がそっと寄って来てくれるような
優しい言葉がいいな。



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"水色"のこと

2016-08-14 | 詩を歩く
水色のことを考えていた。

「水色の空」と言う時、
いつも少し躊躇うのだ。そうかといって、
「空色の空」というわけにもいかない。
水色と空色というのは、どちらも同じような
淡い優しい青色をイメージする言葉だと思うが。

"水の色、空の色"とは…。
水の色とは何? 空の色とは何?と。
いずれも元となる色を限定できないぼんやりとした
色彩の形容であるなと思う。
…桃色やオレンジ色、レモン色と言ったように、
直接的な色の説得力が、
言葉の背景にない不思議な名前だと思う。

いくつか形容してみる。
水色のワンピース、空色のワンピース。
水色のお皿、空色のお皿。
水色のボールペン、空色のボールペン。
水色の自転車、空色の自転車。
水色のバイク、空色のバイク。
水色のソーダ水、空色のソーダ水。
水色の猫…、は無理があるのでw、
水色の鳥、空色の鳥。…

思いつくままに上げてみるのですが、
水色の形容の方がしっくりくるもの、
空色の方が似合うものがあるように思う。
水色の方が、現実感が強いだろうか。
空色の方が、空想的な世界に近い感じになるのだろうか。

「空」という時、人によって
空を心にイメージする色は異なると思う。
それを考えると、初めて"水色"、"空色"という
言葉を用いた方の勇気とイマジネーションに、
敬意を払いたくなり。
そして、"水色の空"は、
やはり、これでいいのだと。
"空色の種"は、こちらもこのままで。


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2016-08-14 | 詩を歩く
花というのは、とても不思議なものだと思います。
花は、植物にとってある限られた数日間の姿なのですが、
花が散ってしまった後も、葉や幹に、
今はない、またいつか咲くかもしれぬその幻影を、
追い続けてしまいます。
一刻一刻過ぎ去る空の光が、
ひととき留まった姿なのだなと、
思えたりするのです。


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Dear空へ、今日…

2016-08-14 | 詩を歩く
花は、いつのまにか、空の光を飲み込んでいた。
花は光そのものだった。
長い間、土なかで、月明かりの青い風影、
木々の内側を川のように流れる赤や黄色や白い音色を
聴いていたという…。
雨が何回もやってきては、
本当は空は少し孤独なんだと教えていった。
鳥や虫がノックを繰り返した。
だから、Dear空へ、今日咲くのです。

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花のエピローグ

2016-06-28 | 詩を歩く
花のエピローグは、
まもなくその形が朽ち果てて
消えてなくなっていくだろう時間の中で、
タイムカプセルのように
見えない種となり、
無数に空中に浮かび、散らばり、
心を寄せていた者の深奥に、
着地し、浸透し、
根を伸ばしていくような
そんな錯覚を覚えます。


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優しい雨は…

2016-06-28 | 詩を歩く
優しい雨は、幻想的な時間を連れてくる。
雨は自然の美しさを洗い出す。

雨が美しい。
雨がザーザー降っていて、
1人で見上げている生き物たちの孤独は
雨音の中に集められて
かき消されていくようだ

麗しい雨。雨は風景を洗い出す。
人や動物の心も洗っていくように。
埃が溜まり、ぼんやりと隠れていたものが
洗われて、研ぎ澄まされていくような
ところがある。



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葉っぱの形、…

2016-06-28 | 詩を歩く
葉っぱの形、
鳥が描く流線型の風、
花びらの色に、囲まれる。
自然は、いつも新しいのだと思う。

身の回りの音や色や形に
気づいてみる。深い鼓動。
いつも不思議に思うこと、
雑草の葉の美しい形、種類によって
皆違い、。どうして、
こんな綺麗な形をしているのかなと
豊かな深遠を覗く。



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石の時間

2016-05-15 | 詩を歩く
ある石の中というのは、
色彩で溢れていたりする。

人間がその石の美しさに気づいて
掘り起こさなければ、
まだずっと、
地球の回転していく音を聴きながら、
自分の中に宇宙的な時を
刻んでいくのだなと思ったり。

宇宙的な眠り、
それは深い思索のように、
石を磨き上げていくのだなと思い。


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羽ばたきながら、降りてくる

2016-05-14 | 詩を歩く
鳥の写真を見ていて思うのだけれど、
鳥は着地する時にも、
羽ばたきながら降りてくる。
羽の動きを止めて降りてきたら、
あっという間に落下してしまうから。

…鳥はその羽毛の中に微量の風を含んだり、
放したりして、羽の角度を変えながら、
思う場所にふわりと着地するのだろう。
水辺だったり、木の梢だったり。
思いのまま。

ギリシャ神話のイカルスが、
空から落ちてしまったのは、
あまりに太陽に近づきすぎて、
翼が溶けて壊れてしまったから…。
翼を失くし、羽ばたきを止めてしまったら、
墜落してしまうばかり。

鳥が着地しようとして
足を地面につこうとする瞬間は、
だが、決して鳥の体は
空を忘れていないのだと思う。
空の記憶に満ちた羽を広げて、
降りてくるのだ。鳥は飛ぶ。
羽ばたきをやめるわけにいかない命だから。

相変わらず、外に出れば空ばかり見ている。
鳥ではないから、既に地面に足を
つけているのだが。
イカルスのように落下しないように、
空の向こうにつづく夢を見て。
透明な羽の動かし方を習っている。


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