詩の現場

小林万利子/Arim 「詩のブログ」 詩をいつも目の前に
小林万利子/Arimの詩とエッセイと音楽Arim songs

Arim worksのご案内

2018-05-15 | 小林万利子/Arimの詩と音楽について〜お知らせ

Arim worksのご案内です。
どうぞ宜しくお願い致します。
尚、Arimは、小林万利子のArtist nameです。


Arim works

①CD『きみのもとへ』
ーFor Gaza, For The Cildrenーシリーズ
“I Believe“ “Again“ “ きみのもとへ“〜“白い翼“まで12曲の収録です。
ガザの少年を思うことから、私の曲作りは始まりました。
世界に平和が訪れますように、希望の光に繋がりますように。
そんな想いで作った歌です。優しいPopsです。
どうぞ宜しくお願い致します。

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B079H67671/
タワーレコードhttp://tower.jp/item/4674244


②EP『Love For You, For Gaza, For the Cildren』
チャリティープロジェクトとして、3曲を収録したミニ・アルバムです。
ここから得られる収益はJVC様へ寄付し、ガザや紛争地の子供達への支援に役立てて頂きます。

チャリティープロジェクト
https://forgazaforthechildren.jimdo.com/
レコチョク
http://recochoku.jp/artist/2000970130/


③新詩集『青空のかけら』
…見上げれば空
辛い時、悲しい時にも、心に、陽射しのような優しい勇気が湧いてきますように

Painter kuroさんが主宰されるしろねこ社さんから、旅シリーズ第2弾として出版されます。Arimのショートポエム40篇と、kuroさんの美しい挿画の数々のコラボ詩集です。
バックに入れて、いつでもふと開いて頂けますように、ポケットサイズの小さなとても優しい詩集です。どうぞ宜しくお願い致します。

https://store.shopping.yahoo.co.jp/qwkdviwdipewy5eu2hsbqqavze/p2e37eanqi.html



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

さいとうさんの雨

2018-05-15 | フリー Poem
さいとうさんの家の前を通ると
大きな雨粒が落ちてきた
さいとうさんの家の庭には
大きな葉っぱの紫陽花が植えられていて
花はこれからという時期に
葉っぱが宇宙へ手を拡げている

葉っぱの上には
水たまりができていく
雨粒は着地点を見つけると
つぎつぎに仲間を呼び集めて、

さいとうさんの家はますます
緑色に覆われていく
片隅に咲きだしていた名もない
小さな花は片目をつぶり
雨の行先を見守っている
名もない花とは
さいとうさんの家の前を通る
名もない私たちが勝手に呼び名にした花
さいとうさんが聞いたらさぞかし残念そうに
そして、風に倒れかけた花をいたわるように
この世界にひらいた花の名前を
一つ一つ丁寧に教えてくれるはずだ

だから、 名もない私たちも
お礼にそっと、さいとうさんに
自分の名前を告げていく

名前とは秘密の儀式のようなもの、
ひとつだけの鍵穴に合わせていくような、

さいとうさんの家の庭には
名前が溢れていく
花が咲き乱れる時の移ろいが
土なかに
種となって沈んでいく
昨日の今日の
記憶というものの堆積が
さいとうさんの庭の土壌を肥していく

ああ、そうなのだと
わかりかけていく
たいてい、記憶というものは
どこでも堆肥となっていくのだが、
名前というものが記憶を取り出す術である以上、
私たちの覚えたての名前は、
まだまだ踏めばカサカサ音立てる枯れ枝や枯れ草のようであって、

もう少し、長い止まぬおしゃべりの雨の筋を見ていこうか
途切れることを知らぬ雨の語り部が
降りてくる
細い細い糸のような雨筋を伝わって降りてくる

緑色の紫陽花の葉っぱの上の
ささやかな水たまりに止まる時間というものを、
さあ、数えてごらん、と言われたような気がして。
1粒2粒と数えていくのだよ、時と言うのはね、雫であるのだからね。と

さいとうさんの家に降る雨に
すっかりずぶ濡れて
では皆さん務めに行って下さい。
1粒2粒の時間が回り出す朝に
さいとうさんの家の
緑色の雨を
コートのように着込んで
見送られる
さいとうさんに
さいとうさんの雨に。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

ショボリショボリ

2018-05-15 | ショートPoem
ションボリショボリが
止まらないから
おめでたい神さまを
呼びに行こうと思った

どうぞこちらをお通り下さい
おめでたい神さまが
お通りになると
花の香りがするものだ

風がときおり吹いてきて
どこからか
花の匂いを
運んできたら
それは目の前を
おめでたい神さまが
お通りになっているのだ
花びらひとつ
置いていかれることもある


ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

詩史を踏まえての雑感〜日本のモダニズムの頃のことなど〜

2018-05-15 | 詩を歩く
Twにて、イマジズムの詩というタグ付けで詩を発信していますと、時々、ご質問を受けることがあります。個別にお答えすることが度々ありますが、noteに書いておこうと思いました。
あくまでも、私の興味が座標軸となる詩史の大まかなまとめと雑感です。学生の頃と違って、資料が手元にないので、論考ではなく、お茶飲みながらの雑談だと思って、、どうぞお読みください。


日本の詩は、短歌、俳諧(俳句)、自由詩に大別されます。
“自由詩“はいかなる形からも解放され、言葉の文学として、新しく生まれ歩き出したのだと思います。

明治の「言文一致運動」。自由詩にとっても言葉の獲得の歴史です。
自由詩の始まりは訳詩からでした。上田敏の「海潮音」は記念碑です。島崎藤村が賛美歌の訳者の詩を転用したり、自由な言葉を詩に取り込み、口語詩への道を歩き始めました。

三木露風や北原白秋等の「象徴詩」の時代があり、その後、萩原朔太郎が「口語自由詩」を確立します。現代の詩の祖と言えると思います。

朔太郎からは、西脇順三郎(モダニズムの流れへ)と三好達治(叙情派四季派の流れへ)が分かれて行くと考えています。

当時イギリスから戻った西脇順三郎は、モダニズムを持ち帰りました。昭和初期の日本のモダニズム運動を進める春山行夫らの若い詩人たちに大歓迎されます。

またイマジズムの詩人としての業績は、なんと言っても北園克衛でしょうか。エズラ・パウンドとの交友も有名です。
瀧口修造の活躍もあり、昭和初頭から戦前が、詩のモダニズム全盛の頃でした。

シュールレアリスム、ダダ(高橋新吉)…。外国のモダニズムの芸術運動が、昭和初期、日本の詩人たちに大きな影響をもたらしました。

しかし残念なことに、戦争の時代に入り、日本の詩から、モダニズムは姿を消します。

文学者、詩人も、転向を余儀なくされ、戦争加担詩か、沈黙か、皆作風が変わります。
そして、「歴程」(草野心平 渋沢孝輔 吉原幸子ら)は戦前戦後と続きましたが、終戦後は、「列島」(関根弘、長谷川龍生ら)や「荒地」(鮎川信夫 田村隆一 三好豊一郎 黒田三郎)から、さらに重要な詩人たちが出ています。

“荒地“、この誌名はもちろんT.Sエリオットの「荒地」からとっています。敗戦後の荒涼とした場所から立ち上がっていく、そんな詩の出発に見立てたのだと言われています。

尚、戦前の叙情派四季派(三好達治 立原道造ら)からは、戦後「櫂」が生まれ、谷川俊太郎、茨木のりこ、大岡信らの多数の重要な詩人が今に続きました。

大きく分けて、戦前の以下の流れは→右の戦後詩のように位置づけられています。(他にももちろんありますが。)
・モダニズム詩 → 「荒地」グループ
・プロレタリア詩 → 「列島」グループ
・四季派の叙情詩三好達治  →「櫂」グループ
非常に主要な詩の大雑把な流れです。この他にも重要な詩誌のグループや著名な詩人はたくさんいます。

そして、60年代以降の現代詩の難解な方面への移行。それは詩にとっての経験であったと思います。ただ、民衆の気持ちからは離れて行きます。

今でも、好きな日本の詩人は誰ですか?という質問に、宮沢賢治や中原中也や金子みすゞと言われることに抵抗があります。
彼らが優れた詩人であることは間違いありません。ただ、今を生きている詩人ではないのです。彼らが今を生きていたら、もっと鮮烈な言葉を私たちに共有してくれたかもしれません。時代の言葉として、ヒップホップだったかもしれないし、リーディングや音楽だったかもしれない。

好きな詩人の質問に、谷川俊太郎さんの名前が出てくることで、少しホッとしますが、ただ現実は、谷川さんさえ知らない一般の方も多いのです。

人が心に享受し共有していく言葉、というシンプルに詩が担うべき役割を、現代詩は放棄してきた一面があると思います。その代わり日本人は“歌“を共有財産に持ったのだと思っています。
ユーミン、陽水、サザン、ドリカム等々の歌の言葉を、日本人は自分の時間に取り込んでいったように思います。

現代詩の歴史を細かく書き出すと、どんどん長くなってしまうので、ダイジェストで途中に致しますが。

ところで、私が今関わっている日本の自由詩というのは、このような歴史があることからも言えるかと思うのですが、西洋のあり方とは少し違うのかなと思っております。
あえて冒険的な言葉を使ってしまうなら、言語や固有の思想を、形としては、踏襲しない文学形式。これが日本の今までの現代詩の歩みであるとも思うのです。

ただ、見えない部分の踏襲があるとすれば、
それは唯一、私は日本の詩歌の伝統に(それは歌謡曲まで)続いているものは、“もののあわれ感“だと思っています。
四季の移ろいの中で、海に囲まれた島国で培われた情趣、哲学と言ってもいいのだと思いますが。

西脇順三郎は、それを永遠という言葉で捉えました。永遠ではない人間の、永遠への思慕です。淋しさが漂いますが、それは硬質の叙情に歌うことで、至上の美に変わるものですね。

日本人である、そこに立って、言葉を発して行く時に、もののあわれの意識、それはある時は無常であるが、決してなくなるものでないという、宇宙的な禅的な視点を合わせて、俯瞰していく立ち位置。静かにそこの地下水脈に届いていれば、日本の詩歌の水脈に続いていられるように感じます。

ところで、最初に戻りますが。
私が、現在使う“イマジズムの詩“という意味ですが。
私の思うかつての北園克衛のイマジズムの詩は、実験的で前衛の騎手でした。どこまでも芸術的で、硬質の叙情が光っていたと思います。奇抜な言葉や形式の新しさへの追求があり、素晴らしい詩の仕事だったと思います。

私がイマジズムの詩を、と使う時、この北園克衛の仕事が頭の隅に浮かびますが、モダニズムのイマジズムを踏襲するものではないです。言葉に絵画的でビジュアル性があって、硬質の叙情を目指しますが、形式主義にならない、新しい詩でありたいと思う立場なのです。

それにしても、失われた時代ですが、私には戦前のモダニズム全盛の頃が、詩のひとつの憧れの時代でもあります。

ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村


エッセイ)無記名の美

2018-05-15 | 詩を歩く
無記名の美ということを考える。
それは、禅的な美かもしれないし、宇宙的な美と言い換えてもいいのかもしれない。

自然の前に人が立ち、美しいと感じた時に、美は生まれる。自然も美の形もそこにあったものかもしれないが、その前に立ち、心動かすものに出会わなければ、美は発見されない。

そして美の本質は、無記名なものであるのかと思う。命の根源に繋がっていく美。見かけは何ものからでも始まる美。ちょうど頂上を目指す山登りのように。そこには、名前がないのかもしれない。

私たちは、名ざせないものに不安を覚える。いや名指すことによって、わかり、ことによったら所有できるもののように感じる。

掴むことの出来ない概念は、共有することは出来る。時間を共有するみたいに。だが、風は所有できない。にもかかわらず、風にまで名前をつけて美を捕まえたくなる。

枯れ朽ちた冬の植物の形は、もはや生き生きとした色彩のある花や葉をつけてはいない。しかし、植物が、“私はかつて紫陽花であった“と言う必要は無い。植物の命の脈が流れ続けている。すべてが土に崩れ落ちてしまっても、そこには存在の無形の温床が残っているようにさえ感じる。それは対象は無記名の美であるが、その美を記憶する人間がいる限り、形なきものの残す記号の奥に、永遠に連なる時間の根へ繋がっていく。

川は名前がつく。しかし川を作るのは水の流れである。水は留まらない、風も然り。流れゆく形なき残照に名前をつける。美は表面にあるものの向こうに匂いたっている。

考えてみれば、ずっとあり続ける同じ形は自然の中には無い。夕焼けも美しい色を翻して行ってしまうのである。美の王宮に戻る、そんな感じである。移ろいゆくものの美。それは増減のない宇宙的な美。“その時“がすべてに通じている禅的な美、と思うのだ。


ありがとうございます。応援してネ♪

にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村