詩の現場

小林万利子/Arim 「詩のブログ」 詩をいつも目の前に
小林万利子/Arimの詩とエッセイと音楽Arim songs

夢を釣り上げて

2016-04-14 | 詩を歩く
多くの人の心に生き続けている言葉がある。
音楽がある。絵がある。
いのちと同じように、”希望”というものが
繋っていくのだと思う。

時間というのは、1本の流れではないのかも
しれない。渦を巻くような流れや激流も
あると思う。激しい流れは、時間を飛び越え、
現在や未来に届く…。

時間を遡り宝物を釣り上げる。
しかしそれは、本当は反対なのかもしれない。
過去へ投げかける釣り糸は、考えてみると、
過去から未来へ投げられた糸。
過去が未来に泳ぐ魚を捕まえているのだと。

時間はいつも過去と明日へ足をかけている。
生きるということは、すでに明日の希望を
生きていて。時間は夢を釣り上げていく、
今を歩くことからはじまる夢。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

芭蕉の桜に

2016-04-14 | 詩を歩く
「さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉」

芭蕉の胸中に思いを馳せるが、
はるか昔に発せられたこの短い言葉は、
現代の私たちの記憶の時間にも触れてくる。

あえて、"さまざま"と詠む芭蕉の句。
何でもないような日常語の言葉にも思えるけれど、
深い共感を呼ぶ。
読み手の心に記憶された時間を呼び覚ます。
実に多くの場面が、この言葉によって、
映画の1シーンのように流れだす。

芭蕉の、奇をてらわない言葉には、
何という生命力が潜んでいるのだろうと思う。
…人の記憶や五感を目覚めさせる言葉、
過ぎた時間を生き生きと喚起する言葉に、
しばらく打たれていたい。
桜の花びらが降りしきる、そんな風の中に立ち。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

風と永遠と…

2016-03-10 | 詩を歩く
風は巡りです。
時間も地球の回転の中で生まれます。
風は、時間の産声かもしれなくて。

目に見えぬ実体というものに、
私たちはいつも触れています。
だから心が暖かくなったり、
喜びを感じたり、…

カップでコーヒーを飲むみたいに
永遠の縁に口をつけることができる。
知らぬ間に永遠の時間に、
足を踏み入れていたり。

変化こそ永遠の素顔と思い。
花が咲き、その花もまた散っていきます。
永遠の種が手渡されていくのだと思うのです。
次の形を生むために。

見えぬ場所にすでに約束の萌芽ありて、
是即チ永遠と。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

Flowers

2016-02-25 | 詩を歩く
花は、美しい。
花は、出会いであると思う。
もうじき咲きだすのを待つ時間は、
幸せな予感に満ちている。
だが、花の美しい姿は永遠ではない。
時間の魔法にかかり、変貌していく。
光と風に揺られ、一瞬を生ききる覚悟が
あるようにさえ感じたり。

花が美しいのは、
きっと、2度と同じ時間はないという
潔さがあるからだとも思う。
花の美しさを止めたい。
そんな願いが絵になったり、
香りや染色の世界に命を宿し続けて。

"Kenji Shibata Photographs Of Frozen Flowers "
を見て、
…花を氷に閉じ込める、
一見残酷にも感じるけれど、
活け花のようでもあり。
それこそ花の一瞬の命との邂逅なのだろうか、
と思ったのだ。

花の美は、時間が連れ去る。
朽ち果ててしまう。
でも花の美しさは、私たちの心に残る。
永遠の住む場所に、である。
美の印象が強ければ強いほど、
永遠性も色濃いことは、確かである…。


ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

永遠のことを、考えていたのだけれど…

2016-01-29 | 詩を歩く
永遠のことを、考えていていたのだけれど、
風邪っぽいから、論旨の繋がりが悪くて、
フローになってしまう。

…「古池や蛙飛び込む水の音」芭蕉の句を
時々思うけれど、
水の音が宇宙にポーンと響くような句。
すべてはこの宇宙の中の出来事。
時間に抱かれ、私たちは変化としか捉えないけれど、
それこそが永遠の姿であって、と思うのだ。

永遠を追いかける。
永遠はいつも開かれている、と思えるようになった。
誕生や死や、出会いや別れや。
風貌も景色もどんどん変わるし、
二度と同じ瞬間はないが、
また別の角度の永遠がつながっていて。

瞬間が永遠の扉を開けてしまうような、
永遠の顔を垣間見るような時、
そこには、美が介在することが多いのだろうと思う。
美しいと思う気持ちは、とても深いものだろうなと思う。

心地よいと、美しいなと思う気持ちは、
少し違うのだろうね。
美しいと感じる心は、どこか永遠を思慕する感情に
つながっているのかもしれないなと思う。

日本人は、もののあわれを感じ取る。
四季の移ろいが手助けをしているのだろうね。
移ろいゆくものに、美しさと淋しさを感じる。
変化こそ本当のことなのだとどこかで悟りながら。
カタチの移り変わりを見つめ耐え忍ぶ力も備わり。

もののあわれを感じ取る心は、
だから決して弱々しいものではないのだと思う。
また移り変わりの景色に佇んで、
時を過ごすことの豊かさ。
そんなところに 、諦念と希望を含む弾力のある心が
育まれる所以があると思う。

曖昧とか。これはコミニュケーションにおいては、
まずいこともあるけれど 、移ろいゆくものの深さを
見知っているからであったりもする。

…だから、はい。いいえ。の中間に佇んでいられたり
するようにも思う。白と黒の、両極端にならない、
時間のあわいのようなモノトーンの世界には、
様々な豊かなニュアンスが溢れていて、
決して分裂しない宇宙的な永遠が流れていると思える。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

時間を飛行する

2016-01-17 | 詩を歩く
鳥は、何故飛ぶのか…、
目の前を飛び立つ鳥を見てはいつも思うこと。
では、人間は何故歩くのか、
この問いと同じであることだと知りながら。

中には空高く飛ばない鳥もいるけれど、
飛行できる鳥は、飛ばないでは生きていけないだろうね。
人も1所にじっとしては生きていかれない。
歩いていかなければ生きていかれない。

考えてみたら、生まれたての鳥の赤ちゃんが飛べた時、
人間の赤ちゃんが歩きだす時は、
誕生の次に祝福される時だ。

鳥は飛びつづけ 、人は歩きつづける。
これが生きるための姿なのだと教えられて。
時間を飛行する。
いのちが纏う色を変化させながら。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

鳥の羽は、そのものであろうか…

2016-01-17 | 詩を歩く
言葉に力をもらう。
人間は、言葉によって進んでいける生きものだと思う。
だからいろいろな角度で物事を捉えて、
思考を巡らしたい。
言葉は、ある1つのことを言い当てることが
できるだろう、
だけどすぐ横で、別の言葉も生まれている。

1つの言葉の背景には、様々な意味が眠る。
言葉は真理を1つの側面から抽出する記号であり。
魚釣りのようであるなと思っている。
ある部分では、イメージ的な言葉の方が、
真理に近づけるものかもしれない…。

林檎、という言葉で、リンゴを言いえて
しまえるだろうか。
リンゴから立ち上る世界は、沈黙するだろうか。

花や鳥の名前のように、そのものの名前に安心を得て、
満足することもある。
そういう種類の言葉で組み立てていく伝達方法もある。

…一言で名指す言葉に憧れる場合と、
それでは飽き足らず、心の深奥に
少しの哀感と苛立ちを感じる場合がある。

現実には可能かわからないけれど、
一言で名指す種類の言葉で組み立てていく物語が
あったとしたら、
それは私たちの世界を再現するだろうか。
鉄骨が露な建築物のような、どこまでも無機質な、
そしてどこかシュールな世界になるのかもしれなくて。

そして一方で、言い表したい対象の、
もっと柔らかな空気までをも掬い取れるような、
言葉の城のような世界もあると思っている。

鳥の羽は、そのものであろうか。と思ってみる。
そのものを名指すことができそうな言葉は、
天使の羽、鳥の羽 、昆虫の羽、陽炎の翅、…。
と追っていってみる。
…蝶の羽となって、少し立ち止まる。
1匹の美しいいのちの佇まいが、羽という言葉の
外側にはみ出てくるような感覚を覚える。
…言葉としてのほんの印象であるけれど。

そんな感慨をここのところ持っている。
1つの真実の側面として、
…1つの言葉は全てを表せない。
海に糸を垂らし、引き上げる魚、それが言葉。

海にはたくさんの生き物がいるし、
まして1匹の魚で海すべてを語りつくせない。
しかし、海で生まれた魚は、海その物でもあるのだ、
1匹の魚が、海をすべて持っていると言って
過言ではないという仮設が成り立ってもいい。

魚は海である、と。それが詩であり。
詩の言葉は、魚を海にもすれば、空にもできる。
魚は宇宙であるという紛れない真理に、
超特急で到達するのだ。
仏教的な境地みたいになるけれど。
詩の言葉も仏教的真理も宇宙も、
到達点が似ているように思えてくる所以が、
この辺にありそうな。…


ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

Image(イマージュ)は…

2016-01-07 | 詩を歩く
Image(イマージュ)は、架空の世界と
現実の知覚を繋ぐものであるなあと思う。
…最初は架空の世界のものであるが、
現実の知覚へ直截的に呼びかけてくるもので
あると思う。

…Artや文学的な意味合いであるけれど、
現実にはありえない幻想的なものにも、
現実以上の真実を感じられる時がある。
心が感じとれるもの、それは心にとっては
実体であるのだと思う。

心が動くというのは、不思議な感覚である。
考えてみれば、現実に見て触れて感じるもの、
3次元的な知覚も、その時が過ぎれば残像であり。
…心が捉えるものは、現実の世界と
想像の世界の両者があり、
心の知覚の深度が大事になるのだと思う。

心はイマージュも現実の実体も、
常に別の言葉に翻訳して知覚し直すのだと思う。
1つの核として取り込み 、宇宙的な膨らみを
作っているようでもある。

物事を深く理解し感動できる心。
深度を持ち、現実を超えていく感覚というべきか、
この超現実はリアルな感性に息づくものと思うが、
その(詩的)真実は、心が感じ取る世界にこそ
実体としてあるのだ、と思ったりする。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

マルセル・デュシャンのはなしをしてくれた人、から

2016-01-07 | 詩を歩く
時々、以前に書いた自分の詩のフレーズを
思い出すことがある。
書いたばかりのものより、時間が経って
詩が違う人格をもって生きているw作品に、
そんなことはあるように思う。

今日は、"わからないから  すきなんだ"…
という始まりの
「マルセル・デュシャンのはなしをしてくれた人」
という詩を思い出していた。
懐かしすぎるのだけれど、言葉は生き物のように
時間を越えてやって来る。

人は、人を好きになるように生まれてきたのだと
思う。なぜ好きなのかとか、後付けの理由など
当てにならなくて、本当の理由などわからない、
というのが正解かもしれないね。

人に限らず、生きて出会えるもの全てに、
本当はなんて奇跡に満ちているのだろう、って
思えたらいいと思う。
世界が慈しみに充ちて、
優しくなれる方法だと思うよ…。

わからないから すきなんだ
といった人のことを
私も わからないから すきになった
すきという感情は
絹の糸よりも やわらかくて 強い
空中に 生みだされる 糸
糸をたどる
つぎつぎに 糸は 光の七原色を
はらみ 変化する
マルセル・デュシャンのなぞのように
あの人の 心へ はなしかける

     詩集「月がまるみをおびる地点まで」より

(「マルセル・デュシャンのはなしをしてくれた人」)
 http://blog.goo.ne.jp/mamika4183/e/e0fb1d9dd415c5cc9e9b3b07b49f343a


ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

オートマティスムと言葉のこと…

2015-12-05 | 詩を歩く
このところ変性意識についての記事を
時々目にする。シュールレアリスムの手法に、
自動記述、オートマティスムがあり、
そんなことを思い出していた。
無意識や意識下の世界に届くために、
意識をflow状態にし、書き留めていく。
何かを創造するときは、少なからず、
このflow状態に入ることはあるだろう。

flow状態は、確かに自分が制約しない意識下に
おりて、世界が拡がりを見せる。
自由で心地よい時間の住人でいられる。
言葉の場合、しかしその感覚を明晰な言葉で
掴んでいかなければ、つまらないと思う。

言葉は 、一方で理性が司る。
感情語をいかに排除していけるか、
そこにflow状態に入り、オートマティスムを
取り入れた場合の面白み、深まり、共感が
生まれるのだと思う。
詩の言葉は、常に研ぎ澄まされたいものだと願う。

仮想というものも、仮想としてのリアリティが
大事だと思う。
まず自分が信じ込み入っていく仮想の時空、
そこには手に当たる壁や手すりのような物象、
足の裏が感じる床や階段がいるのだと思う。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

時間というものは…

2015-10-10 | 詩を歩く
時間というものは、何だろう。
川の水には流路があるが、
それは川の水が液体であるからだ。
時間は空気の流れ、風のようなもの、
光の通り道のことでもある。
そして時間は心の中に堆積していくもの。
だから様々な色をしているし、
過去も未来も現在もひとつの鏡に
集められるもの。…

悲しみは悲しみを経た更なる喜びへ、
絶望は必ず希望へ変えられるのもそのせいだ。
時間は流転している。
心の空に旋回する鳥のようなもの、
心のなかに出会う大切なものを探している。
また時間は花である。心の中に咲く花である。
過ぎ去った昨日は、また明日の中に
大きな花を咲かせることができる。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

思考メモ

2015-07-12 | 詩を歩く
…時間に加速度というものが
ついているように思える日々。
せめて思考する方向を望む…。
羽を持つというのも1つ。
羽の意味は空高く舞い上がること。
そしてさらに透き通った目と
鋭い嘴を持ち地上に急降下し
地下の水脈に繋がる…。

…すると空と地の意味は
鳥により一体化し
同義語にさえなっていけるだろうか。
目の前を流れる時間が
単一の意味から解かれ、
別の時間へ移行する。

これは花でも同じだろうか。
花びら仄紅くして、
その時はいずれのものでもない時間に
触れ…。
この気配は秀麗な時間の間(ま)。
不思議な出会いが訪れる永遠の瞬間。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村



花に会いに行く…

2015-06-15 | 詩を歩く
…花に会いに行く。とは言うものの、
その時の気持ちは、晴れやかな思いと、
一方で、細くてほの暗いトンネルを、
1点の灯りを頼りに向こう側へ抜けて
いくような心細さを伴った花への憧れ
とが同居している、とも言えようか。

花は凛と咲く。それは植物がようやく
たどり着いた地点。
次のいのちへひるがえっていくための
最初で最後の舞台を勤めている場所。
花の色はどれもあまりに美しい。
まもなく一変してしまう花は、
開いた瞬間から死と隣り合わせの時間を
生きているせいだ。

花のいのちに触れたい、一時を花の心に
寄り添うていたい。
夕焼けの残照のように、自分のいのちが
物影に落ちて行く前に花の色は匂い立つ。
鳥を呼び、虫を集め。
2度とない光と眠りの世界のあわいに
立ち尽くす色。
その花の姿を心に刻みに行くのだ。
花に会いに行くとは、
花の色を心に受け継ぎ、
花へのお礼に行くことでもある。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村

時は光の住みか

2015-05-05 | 詩を歩く
時間について考える…。
時の流れというものは、
川の流れのようでもあるが、
だが、水とは違う。
高いところから
低いところへ流れる一回性の
ものではないし、一方向でもない。
時は心の中にも流れるものである。

時は記憶であり、
時はすべてを未来へ向かわせる。
逆流もする、
日常の法則を飛び越えることもできる。
時は何度でも訪れる。
希望を紡いでいく流れ。

時は、いのちの夢に向かいながら、
心に注がれていく光。時は光。
どんな傷口にも届き、
そこから僅かな希望の種が
深く深く根をおろしていくのを見守る。

時は光…。時間に抱かれているという
ことは、光に包まれているということ。
時は光の住みかである…。



ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村








「絵本ジョン・レノンセンス」を久しぶりに…

2015-02-24 | 詩を歩く
「絵本ジョン・レノンセンス」という本を
久しぶりに開いて見た。
天才ジョン・レノンのナンセンスな絵本…。
その序文でポール・マッカートニーが
言っている。
…この本におさめられている話は
どれも意味をなさなくってもいいのですから、
なんとなくおかしければそれで
充分なわけなのです。…

なんと潔いセンスであろうか。
原文は言葉が変形されていたりで、
翻訳するのが大変だったそうだが…
ルイス・キャロルの造語を想わせる。

ここのところ、私は言葉というものから、
あまりに癒着してしまっている意味と
いうものを、一度はずしてみたくなっている。
意味をなさぬ言葉というものを希求している。
あまりに意味を求めすぎ、
言葉が、私たちの社会で窒息しそうになって
いると感じる時が多い。
言葉というものは、いつだって最小公約数で
あると思う。
しかも1+1が1以下になる場合もあるし、
それ以上のものが溢れているものだと思う。
本当のことはベールのむこう、
意味は人の数ほど拡がり、本来のシンプルな
発せられた時の意味からは遠退くものだ。
それくらいの覚悟でいないとならないもの…。

…好きだよ…とは、どうしてる。大丈夫。
遊ぼう。何か楽しいことあった?
何か辛いことあった?これ知ってる?
それ教えて。これどう思う。面白い?
こんなこともあって。あんなこともあってね。
そうそう、あの赤い屋根の家にね、
引っ越してきた人がいてね、かわいい犬がいたよ。
…なんていうことの、
人と人の始まりの言葉でもあろうか。

厳しい時代にあって、1つの言葉に向かって
渦巻いていくような1つの意味の求め方は、
言葉を窒息させるだろう。
言葉を使う人間同士を、疲弊させるだろう。
言葉は、物を名指すことはできても、
人が人に伝えたい本当の心の想いは、その単語に
おさまりきれない側面があるものだと思う。

ナンセンスは、一見無責任のようだけれど、
ナンセンスのセンスは人間の機知であり、
深い人間愛に満ちたものであると思う。
狭い意味にがんじがらめになる言葉を
解放しなくてはね…。
言葉が、本来の豊かなイメージの輝きを
取り戻せるように。

いつも思うけれど、「水」と言ったら、
あなたはどんなシチュエーションの水を
想い描きますか。
水道の水…洗濯の水…川のせせらぎ…
もっともっと水という言葉は、人や国、
時代で、様々な背景を持っていますね、
そこに思いを馳せることができた時、
発する人の言葉のイメージに寄り添えた時に、
言葉は言葉の役目を引き受け、
いのちを取り戻して躍動し、人に伝わる言葉に
なっていくのだと思います…。


ありがとうございます。応援してネ♪
にほんブログ村 ポエムブログ 現代詩へ
にほんブログ村