fromイーハトーヴ ーー児童文学(筆名おおぎやなぎちか)&俳句(俳号北柳あぶみ)

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田一枚植えて立ち去る柳かな(芭蕉)「奥の細道」

2014年05月25日 | 俳句

                          早苗

 私たちは、句会に句を出して、お互いにいろいろ言い合います。そのとき、読んだ人がその状況を理解できないと、こてんぱん。基本的に前書きをつけないので、一句が勝負です。

 田一枚植えて立ち去る柳かな   芭蕉

 でも、芭蕉のこの句は、「奥の細道」という紀行文の中に収められているので、前後の状況がわかる。柳というのは、かつて西行が立ち寄り、

 道のべに清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ  西行 (新古今)

 と、歌を残している遊行柳(栃木県那須)なわけで、そこで田を一枚植えたくらいの時間をすごし、立ち去ったという意味だと解釈が可能になるわけです。

  ここで、田一枚を植える時間って、どのくらいか? 一時間? 二時間? いや、もっと?という疑問も湧きます。江戸時代の田ですから、今の区画整理された田と違って、小さいかな。実際に芭蕉が田植えをしたわけではないでしょうから、一枚の田を一人が植えていたのか? 何人もいたのか? とか。 

 ネット検索で調べると、解釈はいろいろあるようでした。立ち去ったのは田植えをしていた早乙女たちか? というのも。でも、私、田植えをしてみると、田植えをしたあとに帰ることを「立ち去る」とは言わないのでは? と感じます。立ち去ったのは、やはり芭蕉。

 「かな」止めの句に関しても、この句だと「去る」でちょっと切れる。あるいはたくさんのこと(「あの西行がここに立ち寄り、そして歌を詠んだあの……ということを)を省略しているわけで、正直一見しただけでは〈わかりにくい句〉だなあと思ってしまいます。でも、かな止めの句はその前の部分こそが句の中で最も言いたいこととも言われていて、としたらここで芭蕉がいいたいのは、「柳」であること。西行への畏敬の念であるとも読むことができる。

 と、ここまで書いて、やはり芭蕉は西行の歌を踏まえている。としたら、西行が「しばし」と読んだ時間を「田一枚植えて」と表現した。西行が「立ち止まった」のに対して、芭蕉は「立ち去った」とした。と思えました。

 読んでくれる人が「いいな」と思ってくれれば、それでよし。そういう反応がなければ、独りよがりとあきらめる。それが座の文芸のよさであり、危うさであると、田植えをしたものだから、この句を思い出し、改めて考えました。とりとめもなく、でした。

* 日中は暑くなるという予報だったので、朝のうち草刈り。そして、カラーの球根を植えました。(ところで、カラーの球根は高かったということも書いておこう。切り花を買うより高い。これで芽も出なかったら……)