fromイーハトーヴ ーー児童文学(筆名おおぎやなぎちか)&俳句(俳号北柳あぶみ)

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『みちのく山のゆなな』(国土社)『ファミリーマップ』、エンタメシリーズ『家守神』1~4巻、『おはようの声』幼年童話『ヘビくんブランコくん』『オンチの葉っぱららららら♪』、短編集『友だちの木』・歴史物語『アテルイ 坂上田村麻呂と交えたエミシの勇士』他、好評発売中です。原稿・講演など各種ご依頼は、左側のメッセージからお願いいたします。    

宮沢賢治生誕祭全国俳句大会(3)ー賢治産湯の井戸

2012年08月31日 | 俳句

 賢治生誕の家というのを少し前にアップしましたが、厳密に言うと賢治はおかあさんの実家で生まれています。花巻市鍛冶町の宮澤商店というのがそこで、賢治が育った家からも歩いて行けるところです。賢治の家のほうは、今はもう新しく建て直されていますが、鍛冶町のお宅のほうは、賢治が生きていたころのたたずまいをそのまま残しています。毎年8月に限り、賢治がつかった産湯を汲んだ井戸を公開しています。

 27日の賢治の誕生日、訪れました。 

                                                   

 

 かなり深い井戸で、今でも地下水が下を流れていて、飲むことができます。井戸の水を汲むという貴重な経験もさせていただきました。思ったよりもずっと重くて、一回二回ならまだしも、これを一日に何度もするのは大変です。空の桶のついた縄をぐいぐいひっぱって下ろすのですね。桶が軽いと水に浮かんでしまうので、しっかりとしたものが必要なのだそうです。縁にあるのはお清めの塩です。きょうは井戸の公開の最後のセレモニーがこのあと行われるとのことで、そのためのものでした。

 こちらの敷地の中には、古い蔵もあり、蔵フェチにはたまりません。 

              

  裏口もいい感じ。賢治が花巻農学校の教師をしていた頃は、ここは学校の行き帰りに通るところで、学校で収穫した野菜を置いていくこともあったとか。

 現在の宮澤商店の社長は、俳句大会会場のホテルグランシエールの社長でもあり、他にもいろいろと商いをされている花巻屈指の名家。賢治をちょっと細くしたようなとても優しそうな方でした。(*写真などのブログへのアップもご快諾いただきました。ありがとうございます)

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 エアコンつきました。数日前にクーラーを買いましたと書いたところ、「昭和ですな」というつっこみをいただきました。これからもつっこみよろしく!

 ところで工事中、この家が昭和24年に建ったことが判明。築60何年? でもクーラー入ったら、頭がつかれません。やっぱり暑すぎて、頭が回っていなかったことも判明。


宮沢賢治生誕祭全国俳句大会(2)ー花巻市長賞

2012年08月30日 | 俳句

 前日聞いた『星めぐりのうた』と『精神歌』がとてもよかったので、なんとか俳句にしたいと思いました。

 精神歌荻の声ともきこえたる   あぶみ

 賢治忌や手帖に読めぬ文字ありて  あぶみ

 という2句を作り、大会の当日投句しました。大会では6月くらいに事前に応募を受け付けているのですが(応募してませんでした)、それとは別に当日投句部門というのがあったので。するとこの「精神歌」の句が、なんと辻桃子選により花巻市長賞を受賞してしまったのです。なななんと、という感じでした。大畑善昭先生からも入選、また賢治忌の句のほうは高橋秋郊先生の入選に選んでいただきました。

               副賞の色紙。

 ちなみに作者、筆跡などわからないようにした上での選です。主宰から表彰されるときも「あなたの句とは思わなかったわ」と小さな声で言われてしまいました。主宰の色紙ゲットは二枚目です。ありがとうございました。

 また大会では、宮澤賢治記念館館長牛崎敏哉氏の「声で描く宮沢賢治」の講演もありました。この中でも、「星めぐりのうた」「ポラーノ広場のうた」「種山ヶ原」「イギリス海岸の歌」と、歌が盛り込まれていて、賢治作曲の歌に馴染んだ二日間でした。今でも「星めぐりのうた」が、頭に浮かびます。賢治の作曲は「よなぬき五音階」…47ぬき…ファとシがない五音階なのだそうです。

 大会の〆は、精神歌の合唱でした。

 日ハ君臨シカガヤキハ

 白金ノアメソソギタリ

 ワレラハ黒キツチニ俯シ

 マコトノクサノタネマケリ     (『精神歌』 作詞 宮沢賢治)

 花巻農学校では、校歌にしたかったけれど、賢治が承諾しなかったとか。


宮沢賢治生誕祭全国俳句大会(1)ーイギリス海岸・羅須地人協会

2012年08月29日 | 俳句

 波は青ざめ

 支流はそそぎ

 つくづくここは修羅の渚 〈宮澤賢治『イギリス海岸の歌』より〉

                              

  宮沢賢治の言葉のセンスには驚かされます。昭和初期の岩手の川岸に「イギリス海岸」と名前をつけて歩いていたのですから。このブログ名としてお借りしている「イーハトーヴ」しかり、「羅須地人協会」という勉強会しかり。

  渇水期には地層が現れ、イギリスのドーバー海峡に似ているということらしいですが、今では他の北上川とどこにも違いはありません。この上流に注いでいるのが猿が石川という川で、この川は東和町に行く途中にもあり、気に入っています。イギリス海岸は、手すりが設けられ、駐車場もきれいになり……。でも入れ物が立派すぎる他の賢治関係のものよりは、この自然は好き。近くには畑があるのもいいです。左は胡桃(くるみ)の木。右の写真は、猿が石川です。

    

 8月27日は、宮沢賢治が生まれた日。宮沢賢治生誕祭全国俳句大会が花巻であり、辻桃子主宰が選者として来県しました。26日、新花巻でお迎えしてから、このイギリス海岸に立ち寄りました。川が見えるところに、「くるみの森」という無料休憩所があります。ここは今まで行ったことがなかったのですが、あまりの残暑の厳しさにちょっと休ませていただこうということになりました。

 古い木造の家をボランティアの方々が借りて、賢治ゆかりの地を尋ねてくる人たちに休んでいただこうと運営されているところです。冷たい麦茶を出していただき、ちょっとしたお料理まで。私たちが行った日は、キュウリとオクラの和え物、ミニトマトのヨーグルト和えでした。

 ここを訪れて、「なーんだ、ただの川」だと思うかたもいるかもしれませんが、私は賢治がここを歩いたんだなあ、そのころは……と思い描くことができ、やはり好きな場所のひとつです。「イギリス海岸」」という言葉のマジックにかかってしまうような? イギリス海岸沿いの胡桃(くるみ)の実は、ほんの少し黄色みがかっていました。9月1日、二百十日が胡桃が落ちる日なのだそうです。賢治は、当時ここを歩いていて「バタグルミ」の化石を見つけてもいます。今見られる「オニグルミ」とは違う品種ですが、〈くるみの森〉の方も数年前渇水期だったときに、見つけられたそうで(とてもめずらしいこと)黒く変色したその化石も見せていただきました。

  そしてとてもよかったのが、そこの方達が賢治の「星めぐりのうた」や花巻農学校のために賢治が作詞した「精神歌」を生で歌ってくださり(我々もおぼろげながら、いっしょに歌いました)、岩手弁「雨ニモマケズ」や「永訣の朝」を朗読してくださったこと。とても感動しました。この感動が思わぬ結果につながるのですが、これはまた明日。(またかい)

 そのあと行った羅須地人協会では、窓を全部開け放ち、風を入れてまったりすることもできました。羅須地人協会は賢治が近所の人達を集めて農業指導をしたり、歌を歌ったりした家ですが、現在は花巻農業高等学校の敷地内にあり、ちょうど縁側から見えるところに、Tシャツ短パン姿の高校生たちが待機していました。どこかの運動部かなと思っていたら、一列になり腰をかがめて、「だぐすこ、だぐすこ」などと口でお囃子を唱えながら、踊り出したのです。9月に行われる花巻祭りでの鹿踊りの練習なのでした。とてもとてもよかったです。彼らが衣装をつけ、太鼓を持って踊る姿が見たいなと思いました。

 ここは、「下ノ畑ニ

       居リマス 賢治」  の黒板が有名なところですが、写真うっかりしました。

 26日夜は、俳句大会会場のホテルで辻桃子歓迎会が催され、ちゃっかりわたしや神奈川から来てくれた「童子」の仲間もご一緒させていただきました。岩手の俳人の方達とお目にかかる機会は初めてだったので、嬉しかったです。みなさんとても気さくで、楽しくすごさせていただきました。ここでも、主催者側の方が挨拶の中で『永訣の朝』を諳んじたり、『星めぐりのうた』の合唱もあり、賢治の詩や歌がどれだけ親しまれているか、感じ入りました。


あっち見たりこっち見たりー青い達磨

2012年08月27日 | 日記

  岩手の家の神棚の横に並んでいます。宮城県の竹駒神社のものですが、私は行ったことはありません。宮城の達磨は青い? 6月30日の名越しの祓え、12月31日の大祓えも竹駒神社から形代が送られてきて、名前を書いて送り返し、祓っていただきます。

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  私は、きのうから花巻です。ご報告は明日以降で。


百円洗車機

2012年08月26日 | 日記

  岩手に半分いるようになり1年半以上がたちます。当初は車のない生活でした。が、やはり必要ということで中古を購入。おかげで秋田への行き帰りも楽になりました。購入した時期は2011年3月末。東日本大震災から半月ほどたったときでした。私は車庫入れがヘタなので小さい車、軽でもと思っていたのですが、中古の軽がほとんどなく、あっても中古でこんなにするの?というお値段。津波に車を流されてしまった沿岸の方達が多く、車庫証明の必要のない軽の需要がいきなり上がった時期だったのです。

 近くにあるこの洗車機は100円なので、洗うときはいつもここです。写真はうちの車ではありません。この駐車場を境に手前はどんどん建物が建ちならんでいます。でもその向こうはまだまだ田舎の景色が残っていて、いつも向こう側に散歩に行くのです。

 先日300円のマックス洗車(二度洗いしてワックスをかけてくれる)をしたら、夕方どしゃぶりになりました。(クスン)


医食同源?

2012年08月25日 | 日記

 小屋の横に吊してあるタマネギ。スライスして水にさらしたら、ノンオイルのドレッシング(青じそか醤油)をかけ、ボールのまま冷蔵庫に一晩入れておきます。すると辛みが抜けてヘルシーな一品に。血液さらさら♪

  とにかく今は毎日トマトが採れるので、ジュースにして飲んでは、肉や魚を煮込むのに使っては食べ。・・・しかし、私のは料理というよりただただ素材ですな。

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 西馬音内のムービー、消してしまったと思ったら見つかりました。動画をここにアップするということができるのでしょうか? もしやり方をご存じの方がいらっしゃったら教えてくださいー。


安藤忠雄の建築ー新秋田県立美術館と蓮の花

2012年08月24日 | 日記

 西馬音内のあとは秋田に2泊。

 新秋田県立美術館がオープンしましたが、この後ろが旧県立美術館です。お堀の蓮はもうそろそろ終わりですが、すごーく丈が伸びて、まだまだきれいに咲いていました。 こちらが道路をはさんで向かい側にできた新県立美術館。中身は安藤忠雄の設計図や他の美術館の写真がある程度で、まだガランとしています。(今は、無料で中に入ることができます)藤田嗣治の「秋田の行事」という巨大な絵や他のものも、移ってくるのはまだしばらく先のことのようです。なぜ?  中はコンクリート剥き出しで、螺旋状の階段が中央にありました。安藤忠雄の建築では、瀬戸内海の直島の地中美術館が有名ですが、秋田は敷地が狭いのであまり力が発揮できなかったのでは? と思いました。


内蔵(横手市増田町)

2012年08月23日 | 日記

 私は蔵フェチです。

 西馬音内の盆踊りの行き帰り、増田町に寄りました。車で30分くらいのここも小さな町です。でも明治時代から昭和初期まで、交通の要所として相当栄えていたようです。

   こんなふうに何気ない町です。

 古い木造の家があちこちにあります。 この写真の二階部分に、蔵の外側の白壁が見えるのがわかるでしょうか?

  上の写真とは別のお宅ですが、このように蔵の戸や壁が漆塗りの飾りがほどこされています。これも木造の家の中です。  内部は座敷になっていて、冠婚葬祭に使われます。家の人が亡くなったときも、ここに運ばれるのだとか。(内部までは観られません)

  町中に、現存しているこれらの内蔵のうち10件ほどが、随時公開されています。上の写真はぼけてしまっていますが、漆蔵資料館を兼ねている稲庭うどんのお店です。ここだけは蔵の内部を公開しています。(写真、蔵の中です)他の個人のお宅に比べて、漆を磨いているので、すばらしく豪華です。京都の町屋のように、間口が狭く奥行きがある敷地に、蔵が三つも並んでいて、通し土間があるというお宅もありました。何より、そこで今現在も生活しているのですから、すばらしいです。横手市というのは、かまくらで有名な地。豪雪地帯です。大切なものをしまう蔵を雪から守るために屋敷の中に据えているのです。

 関東北部のK市など、蔵で有名な町がありますが、増田のよさは、今現在そこで生活をしている方がいるということです。 10年前くらいまでは、秋田の人でもここの蔵の存在を知りませんでした。それがこの数年にわかに脚光を浴びています。このように訪れる人に、一軒一軒が丁寧に対応をしてくださるというのが、ずっと続くのかどうか、蔵自体が次世代に受け継がれていくのかどうか懸念されます。手入れや冬の寒さなどを考えたときに、今のように生活の場として受け継いでいくのは、なかなか難しいと思います。

 東日本大震災の後、津波に町が流れてしまったところに、蔵だけがぽつんと残っているという景色も見ました。蔵はそれほど頑丈ということで、火災が多かった時代に、大切なものを火から守る役目がありました。今回説明をしていただいた中でも、「火事のときには~」と何度も聞きました。ただ残念なことに2011年3月11日の揺れにより、一部漆喰が落ちてしまったところや、ひびが走っている壁などもありました。

 また写真を撮り忘れてしまいましたが、宿泊した湯沢は酒所で有名です。両関、爛漫という大きな酒元があるのですが、そこよりもっと古いという木村酒造さんを見学しました。(400年だそうです)ここの酒蔵は、日本酒の清らかな香りがしてまた違う風情でした。

 町を見下ろす高台を歩いていて喉が渇いたと思っていたら、古いお宅で店風のところがあり、でもやっているのかな? 閉まっているのかなと覗いていたら、そこは「藤花」というパン屋さんでした。お店の方が出てきてくれて、きょうは休みで、残っているものだけど……と言いつつ、パンをトーストしたものと冷たいお水を土間でごちそうしてくださいました。このパン屋さんも、蔵が家とつながっていて、蔵の中に小麦粉などを保存しているとのことでした。(外は冬は零下になりますが、蔵の中は大丈夫とのことでした)

 ここの高台の何気ない秋草に囲まれた家並みがとても静かで、暑いながらもほっとするひとときでした。


西馬音内(にしもない)盆踊り

2012年08月22日 | 日記

 亡者を思わせる黒い彦佐頭巾をかぶった踊り子。対照的に編み笠をかぶり端縫いの衣装の踊り子。どちらも顔は見えません。端縫いはその家代々に伝わりものによってな数百年も古い衣装をだいじに引き継いでいるものもあるとのことです。あでやかな振り袖用の生地と藍染めの生地、紅花染めの長襦袢を端縫いにした着物はモダンでもあります。

  彦佐頭巾が男と決まっているわけではなく、でも編み笠は女性だけ。道路には砂が撒かれていて、踊り子達の足裁きによってザッザッと音がします。

 跳ねや手を叩くという動作のない優雅な動き。また手の反りなど独特な仕草です。お囃子は力強い秋田音頭と甚句で、秋田弁の音頭はよく聞いていると、滑稽で猥雑でもあり雅ともいえる踊りと対照的で、そこがまたいい雰囲気です。でもやはり予想通り以前行った2回に比べ観光客も多く、会場は同じでしたが踊り場の範囲が広くなり桟敷席が設えられ、屋台も多くなっていました。それによって何が変わったかというと、全体的に明るくなったということでしょうか。以前観たときは衣装ももう少しくすんでいて長く使われている趣があったように思います。が、これは観光客の一人でもある私が言ってもせんのないこと。

   

 18日は三日間の最終日でした。私は例によって、俳句の連衆といっしょ。「童子」主宰辻桃子が、西馬音内俳句大会の選者で、講演会がありました。そこで我々もと繰り出したわけです。西馬音内は、とても小さな町なので宿は一軒しかなく、湯沢市のホテルに泊まりバスで送迎してもらいました。句会は2泊で3回。踊りの句は難しかったです。デジカメでの動画がわりとよく撮れていたのに、うっかり消してしまったみたい。

 10年以上着ていなかった浴衣を持っていき、着ようとしたら帯があれ? どうだっけ? となっていました。結局通りがかった主宰に着せていただいてしまいました。こういうところがいつも行き当たりばったりで、どうにかなるだろうという性格が出て、人様のお世話になってしまいます。

 踊りというと、盆踊りを意味します。お盆関係は全て秋の季語です。夜半に宿にもどるときには虫の声が聞こえてきました。虫というのも、ただ「虫」だけで昆虫ということではなく、秋になって鳴く虫をさします。浴衣は夏。西瓜、枝豆は秋。現実にはまだ夏のものが混在していますし、東北の残暑はひどいのですが、それでも秋です。

 ところで銀座のオリンピック選手の凱旋パレードをテレビで観ましたが、西馬音内の人混みはこれに比べたらかわいいものですね。


谷底の温泉-水神温泉・東館

2012年08月20日 | 日記

 岩手の家から一番近く、ときどき行く温泉です。ひなびた感じでいいでしょう。入浴だけだと150円と銭湯より安く、熱めでお湯質もいいと思います。最近流行の立派な温泉のように、シャンプーやリンスはなく固形石鹸があるだけ。みなさん慣れたもので、シャンプーリンス入りの籠を持ってらっしゃいます。この先には夏油(げとう)温泉があり、よくテレビでも紹介されていますが、ずっと山奥で、ここはその山の入り口みたいな感じです。この温泉のすぐ近くには、リフトがなくロープだけのスキー場(といってわかっていただけるでしょうか)があり、子どもが小さいときはよく連れてきましたが、数年前に閉鎖になってしまいました。夏油温泉のほうにはゲトーピアという立派なスキー場があります。

 西馬音内は小さな町なので、18日から湯沢(秋田)泊でした。ホテルのある地名が湯沢市湯の原。いかにも温泉地という風です。

 


『嫁より先に牛(ベゴ)が来た』(役重真喜子)ー家の光協会

2012年08月19日 | 本の紹介

 このブログに以前、東和町の古文書講座に行ったことを書きました。すると友人から、東和町に高校のときの同窓生がいる云々というメールをいただきました。(ブログを書いたことで、こういう反応をいただけるのは、とても嬉しいです)その方は、東京の生まれ育ちで、東大法学部を出て農水省に入ったバリバリのキャリアウーマン。ところが、研修で来た東和町が気に入ってしまい、あれよあれよと研修中に牛市で牛を買ってしまいます。その牛を預けたまま東京に帰ったものの、東和町に行きたい思いを押さえることができず、東和の役場に出向(農水省を辞めると言ったところ、とりあえずまあまてということになった)、でもそのまま地元の人と結婚し、結局農水省は辞め、こちらの人となりました。その奮闘記。何事にも真正面からぶつかってつっぱしる人の魅力が満載。前半は、すごいなあ、やっぱできる人は違うなあ、人種が違う? とまで思うほどすごいすごいと読み進めました。だってハンパじゃなく優秀ヨメより先に牛(ベコ)がきた はみだしキャリア奮戦記なんです。

 でも、後半地元の方と結婚してからは、なんてけなげなんだろうという気持ちが沸き上がります。結婚式やお盆のときのエピソードなんて、愛と若さがあるからこそです。東京で生まれ育った人にとって、こっちの古い家での寒さがこたえなかったはずはなく、また町中どこにいっても知り合いという環境がストレスにならないはずはなく、その点も正直に書かれています。私は、できることしかやらないと居直ってやっているので。でも岩手の自然や人を好きになってくれてありがとう。ここで暮らしてくれて、ありがとう。心からそう思いました。

 自然への愛、人への愛の実録です。


お盆の風習ー川施餓鬼など

2012年08月18日 | 日記

 13日に御先祖様をお迎えし、16日にお送りする。その周辺の風習は、地方によって少しずつ異なるし、だんだん簡素化しています。

   うちのお墓ではないのですが、このようにお墓に昆布を垂らします。10年くらい前まではあっちのお墓も、こっちのお墓も、でしたが、今年は数件しかありませんでした。岩手の風習なのか、この地域だけのものなのか、他の地域にもあるのか、わかりません。迎え火も、以前は焚いていたそうですが、もうやっていません。

   盆灯籠。花は買わずに畑から伐ります。今年は菊がまだあまり咲いていません。 

 畑より伐りし盆花ちよつと地味   あぶみ    

 これ、川柳じゃない? と思う方もいらっしゃるかも。〈となりよりうちの盆花少し地味〉だったら、川柳、〈畑より伐りし〉があるから俳句。と作者的には思っています。 

 かつて農作業をやっていた牛や馬の供養も必ずします。岩手の家は、馬頭観音が田んぼにあったのですが、区画整理になった際にお寺の隣のお宮さんに移していて、御先祖さまのお墓参りのあとは、こちらも必ず拝みます。  16日の送り盆も、再び畑の菊を伐り、でかけました。でも上の写真、菊が足りなくて馬頭観音は花省略、ゴメンね。右のしおれた花はおとなり。

 夕方からは、北上川のトロッコ流しです。これは本来は川施餓鬼、施餓鬼会(せがきえ)、あるいは流燈会なのだと思っています。施餓鬼会だと、水死者を弔うというのが本当なのだとしたら、流燈会ですね。こういうものも、だんだん変わってきているのでしょう。花火は今年もありませんでした。去年は震災で自粛だったのですが、今年は? 

   川岸に、このような紙の供養塔が建てられていました。 本堂にあった施餓鬼舟(送り舟)。これを流すのかなあと思っていたら、そうではありませんでした。

 このようなものが川岸のお寺から運ばれ、読経が始まります。 暗くなってからのは、写真がうまく撮れませんでした。手前にちらちらあるのが、小さな灯籠。昨年は8月始めのお祭りの最終日に花火と同時に流されるのを見たのですが、川を埋め尽くすほどの数で圧巻でした。でも宗教的にはこの16日が本来です。ニュースでは、盛岡の盛大な舟っこ流しをやっていました。

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 きょうは西馬音内の盆踊りを観に行きます。(秋田県羽後町)日本三大盆踊りのひとつだそうです。(あとの二つは阿波踊りと、郡上踊り)30年前くらいに初めて観ましたが、この世にこんな幽玄で美しい踊りがあるのかと驚きました。(しかも小さな小さな町に)残念ながらここのところ観光化著しく、踊りを観るというより観光客に揉まれにいくようなもの? ではないことを祈ります。

 

 


「七七忌」-2006年わらべ賞明彦賞作品

2012年08月16日 | 俳句

 今「童子」では過去の大賞受賞者は「わらべ賞」へはもう応募ができないことになっていますが、当時はそういったこともなく、続けて応募しました。明彦賞(編集長賞)受賞作です。

「七七忌」

 本家からお呼びかかるや涅槃雪(ねはんゆき)

 お勝手の上がりの高き鶯菜

 雪割や従姉は行方知れずにて

 農作業日記欠かさず種袋

 凍解(いてど)けの包丁塚に詣でけり

 湯上がりの足が真赤やお中日

 笹起きて小学校の立派なる

 ぎしぎしにおはやうございますといふ

 白鳥のまだ帰らざる日照雨(そばえ)かな

 たらの芽の天麩羅しなと七七忌

 目貼剥ぐ背戸の畑がすぐそこに

 黄水仙小さいはうが小屋の鍵

 とりどりの和菓子も獺の祭(おそのまつり)かな

 振り袖のだらりと重き小町の忌

 龍天に昇る土壁ほろほろと

 薄氷(うすらひ)を草に落とすや猫車

 耕耘機(こううんき)山に向かってて進みけり

 神の山ちふバス停も雪濁

 苗代や石に荒縄巻きて神

 永き日の味噌汁に麩の膨れたる

  耕耘機と猫車。後ろは農作業小屋です。

 明彦編集長からは「『白鳥』の背に『日照雨』が当たる写実。『薄氷』と『猫車』の取り合わせの滑稽感。「獺祭』の句の虚に遊ぶ心。『虚実皮膜』の間にある詩の落としどころをさらにせめていきたい」との評。……これは、ファンタジーを書いているものとして、今読むと感じるところ大です。実際「神の山」というバス停。石に縄を巻いて神とする。土壁がほろほろと落ちる。この岩手の世界を物語に描くことで、児童文学でも評価をいただいているのでした。

 こうして書くと、3年連続受賞は一見華やかっぽいですが、入会したのが1994年ですから、10年かかっています。巻頭(その号のトップになること)も、この時期ですから。それまでの間、あとから入った方が華やかに脚光を浴びたり、でもすぐに止めていったり、そんな中で途中少し休んだりもしつつ、ずっと地味でした。受賞後もひとつの句会で全無選(5句出しで、並選すらひとつもないこと)も経験して涙したり。ただ止めてしまうと、それで終わり。やっていたらいいことばかりじゃないと言い聞かせて続けています。でも基本的に俳句は楽しいです。児童文学も同様ですが、やはり違いはあります。(どう違うかは、またいずれ)

《神の山》というバス停を見たことがあったのですが、今どこをさがしてもありません。あれは幻だったのかなあ。 さてこのバス停はうちの近くとかではありません。どこにあるかわかった人はすごいです。答えは明日。(またかい)


「箪笥」-2005年わらべ賞大賞作品

2012年08月15日 | 俳句

2005年には、わらべ賞大賞をいただきました。

「箪笥」

 霾(つちふる)や空ろな家に鍵をかけ

 麗らかや絵だけで食うてゆけぬちふ

 引越しの荷にものの芽のふたつみつ

 たんぽぽに箪笥二棹捨てにけり

 まつさきに祠参りや花馬酔木(はなあしび)

 東(ひんがし)に鳥居傾ぎて暖かし

 武蔵野の山の名残りも笑ひけり

 山吹に一吠えだけや裏の犬

 春暑し錆てんてんと移植鏝

 くたぶれて囀りに身をまかせけり

 朝粥の匙の中なる朧かな

 蕗味噌にけふ何曜日なりしかと

 つばくらめ合鍵三つ拵へし

 蓬(よもぎ)摘む大字小字つくところ

 蝌蚪(かと)の紐池半分を覆ひけり

 いつまでも岸を離れず花筏(はないかだ)

 茎立(くくだち)や砥石はなだらかに凹み

 椿落ち長き雌蕊の残りけり

 まだだれも遊びに来ない蝶々かな

 つぎつぎと春の灯を点けにけり

              

  今の家に引っ越してきたときのことを作った一連の句です。こうして読むと甘さがかいま見えますが、主宰、副主宰、編集長の3者による総合点で大賞をいただきました。

 考えてみると、《大賞》というのは、児童文学も合わせても、これだけです。大賞を取ることの大変さを思うと、かけがいのない受賞でした。写真はうちの南側にある鎮守の森(?)と祠の後ろ姿。     こんなのも玄関に(これは今年現れた〈かぶとむし〉……いちおう東京です。)


「毛虫」-2004年わらべ賞入賞作品

2012年08月14日 | 俳句

 所属結社「童子」では毎年公募による「わらべ賞」というのを、やっています。私は2004年に入賞、2005年に大賞、2006年に明彦賞(編集長賞)を受賞しています。受賞作品は、当時の「童子」では発表されたのですが、それっきりなので、ここで改めて記録したいと思います。20句ですが、読んでいただけたら嬉しいです。2004年わらべ賞入賞作品。

 「毛虫」

 町内に葬(はふり)ふたつや雪の下

 突き当たり毛虫は躰曲げにけり

 しづかかな紫陽花祭と幟立て

 青梅に茶店は閉ぢてをりにけり

 夏花(げばな)摘む天神様の裏の山

 滴りに殖えてをるなり神の鶏(とり)

 客ぽつりぽつりぽつりと夏芝居

 揚羽蝶アルハンブラに行くといふ

 うはずみのやうな人かな端居(はしい)して

 菰巻(こもまき)の跡苔むしてをりにけり

 こんなにも急に来るなよ水中り(みずあたり)

 簾ちよと巻き上げ雨を確かむる

 紙魚(しみ)走る伊勢騒動の顛末記

 家系図に我の名はなし冷素麺

 祖父叱り祖母とりなすや簟(たかむしろ)

 白南風や御先祖様が掛軸に

 板の間を拭き終えへ土用蜆かな

 真昼間の目覚まし鳴るや竹の秋

 出口まで来て引き返す星の恋

 捻花の影まつすぐにありにけり

 *この年の大賞は、たなか迪子さんと如月真菜さんでした。主宰からは「郊外の小さな町の暮らしの哀愁を描写している。まるで向田邦子の小品を読むようだ」との評をいただいています。かっこ内の読みは、今回入れたものです。

 1句として読んでも成り立つし、かつ20句で一つの作品になるように作るのは、楽しいものです。こういうとき季節がいろいろ混じらないようにするのも鉄則ですが、夏の中に「竹の秋」と春の季語がひとつ入っています。きっと当時夏季と勘違いして入れていたのでしょう。「星の恋」というのは、七夕のことで、これは実は秋。(旧暦だと秋になるので)でも、初秋だし、この辺が20句の終わりに入るのは許せるかな。と、「紫陽花祭と」と中8になっているとか、今だったら直したいところもありますが、そのままここに載せておきます。

    句の中に出てくる御先祖様の掛け軸です。俳句はフィクションですが、実際のことを手がかりとして作る場合が多いので、自分のことがチラチラと入っています。

 この掛け軸は義産和尚という人で、母方の御先祖さまです。江戸時代、秋田の佐竹藩主3代に仕えた天徳寺というお寺の住職でした。伯父が本に残してはいるのですが、読みづらく、内容をよく把握していません。が、そのもっと昔をたどると、南北朝時代の南朝方の天皇が金沢から山形方面に逃れ、秋田の湯沢に来たとか書かれています。このあたりになると信憑性のほどはわかりませんが、義産和尚と、伊勢暴動(上の俳句では伊勢騒動としていますが)のときに、伊勢に巡査として行っていたという人は確かにいたようです。その巡査だった人は、職を辞してから秋田看護学校を創設したとか。でも今は残念ながら、母方の親戚とはあまり交流もなく、でもこういう流れがあって自分がいる、そしてこれからも続いていくということは、ちゃんと把握しておきたいなと思っています。歳をとったということかもしれません。