学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学校は社会維持のための装置にすぎない

2010-06-02 | 教育
近代学校は,そもそも近代社会を維持するための装置にすぎない。

とくに公の性質を帯びた現在の学校制度は,
現代社会を維持するための装置としての機能を果たすようにつくられている。
学習指導要領の文言をよくよく読めば,それは明らかである。

したがって,個人の個人としての成長や,
個人が学校で感じる喜びや楽しさは,
すべて副次的なものであって,
それらが主目的になることはないのである。

学校は,その本来の機能ゆえに,
社会の要請に敏感に反応せざるを得ないようになっている。
キャリア教育にせよ,情報教育にせよ,
伝統文化の尊重にせよ,小学生の英語教育にせよ,
すべて,現実の社会の要請あるいは
誰かが想定した(あまり根拠のない)ありうべき社会の要請に
答えるものであって,
これらのことを学んだからといって,
すべての子どもたちに幸せが保証されるわけではない。

ところが,教育的言説の多くは,
学校で個人の幸せが得られるかのように錯覚させている。
そのような言説は無謬性を感じさせるフレーズを使う。
楽しい学校,すべての子どもが高い学力を身につける学校,
わかりやすい授業などなど,あげればきりがない。

このような錯覚が有効に機能している理由は,
それらの言説をもっとも望み,
それらの言説にもっとも共感し,
それらの言説の矛盾に気づこうとしないのが,
教師自身であるからである。
むしろ,子どもたちのほうが覚めている。

それゆえ,この錯覚は,
教師のモチベーションを高めるために,
都合よく利用される。

しかし,これらは学校の本来の機能からいって
不可能であるがゆえに錯覚なのであるから,
この錯覚に基づいて教育に精励しても,
冷静に検証すれば,はかばかしい成果は出ないものである。

現代のように,
社会全体の教育力が落ちている社会では,
学校という装置は,
本来社会がもつべき教育力の分まで,
過剰な教育機能を要求される。

到底,学校にはにないきれない要請であるのに,
子どもたちの「幸せ」のために,
誠実に働く教師が錯覚ゆえに病んでいく一方,
この錯覚を無意識にか感じとり,
己の存在を守るために,
すべてを拒絶するかのような教師もいる。
さらに,
もともと錯覚には無縁であるのに,
錯覚しきっているようなふりをして,
その実,自らの地位を高めるために,
よろこんで社会の要請に応えるかのようなポーズをとる教師もいる。
そして,そのような教師のもとでは都合のよい成果がでることになっている。

この構造的な矛盾を何らかの方法で解決しない限りは,
教育改革をすればするほど,
学校を「よく」しようとすればするほど,
学校教育は劣化する。