近代学校は,そもそも近代社会を維持するための装置にすぎない。
とくに公の性質を帯びた現在の学校制度は,
現代社会を維持するための装置としての機能を果たすようにつくられている。
学習指導要領の文言をよくよく読めば,それは明らかである。
したがって,個人の個人としての成長や,
個人が学校で感じる喜びや楽しさは,
すべて副次的なものであって,
それらが主目的になることはないのである。
学校は,その本来の機能ゆえに,
社会の要請に敏感に反応せざるを得ないようになっている。
キャリア教育にせよ,情報教育にせよ,
伝統文化の尊重にせよ,小学生の英語教育にせよ,
すべて,現実の社会の要請あるいは
誰かが想定した(あまり根拠のない)ありうべき社会の要請に
答えるものであって,
これらのことを学んだからといって,
すべての子どもたちに幸せが保証されるわけではない。
ところが,教育的言説の多くは,
学校で個人の幸せが得られるかのように錯覚させている。
そのような言説は無謬性を感じさせるフレーズを使う。
楽しい学校,すべての子どもが高い学力を身につける学校,
わかりやすい授業などなど,あげればきりがない。
このような錯覚が有効に機能している理由は,
それらの言説をもっとも望み,
それらの言説にもっとも共感し,
それらの言説の矛盾に気づこうとしないのが,
教師自身であるからである。
むしろ,子どもたちのほうが覚めている。
それゆえ,この錯覚は,
教師のモチベーションを高めるために,
都合よく利用される。
しかし,これらは学校の本来の機能からいって
不可能であるがゆえに錯覚なのであるから,
この錯覚に基づいて教育に精励しても,
冷静に検証すれば,はかばかしい成果は出ないものである。
現代のように,
社会全体の教育力が落ちている社会では,
学校という装置は,
本来社会がもつべき教育力の分まで,
過剰な教育機能を要求される。
到底,学校にはにないきれない要請であるのに,
子どもたちの「幸せ」のために,
誠実に働く教師が錯覚ゆえに病んでいく一方,
この錯覚を無意識にか感じとり,
己の存在を守るために,
すべてを拒絶するかのような教師もいる。
さらに,
もともと錯覚には無縁であるのに,
錯覚しきっているようなふりをして,
その実,自らの地位を高めるために,
よろこんで社会の要請に応えるかのようなポーズをとる教師もいる。
そして,そのような教師のもとでは都合のよい成果がでることになっている。
この構造的な矛盾を何らかの方法で解決しない限りは,
教育改革をすればするほど,
学校を「よく」しようとすればするほど,
学校教育は劣化する。
とくに公の性質を帯びた現在の学校制度は,
現代社会を維持するための装置としての機能を果たすようにつくられている。
学習指導要領の文言をよくよく読めば,それは明らかである。
したがって,個人の個人としての成長や,
個人が学校で感じる喜びや楽しさは,
すべて副次的なものであって,
それらが主目的になることはないのである。
学校は,その本来の機能ゆえに,
社会の要請に敏感に反応せざるを得ないようになっている。
キャリア教育にせよ,情報教育にせよ,
伝統文化の尊重にせよ,小学生の英語教育にせよ,
すべて,現実の社会の要請あるいは
誰かが想定した(あまり根拠のない)ありうべき社会の要請に
答えるものであって,
これらのことを学んだからといって,
すべての子どもたちに幸せが保証されるわけではない。
ところが,教育的言説の多くは,
学校で個人の幸せが得られるかのように錯覚させている。
そのような言説は無謬性を感じさせるフレーズを使う。
楽しい学校,すべての子どもが高い学力を身につける学校,
わかりやすい授業などなど,あげればきりがない。
このような錯覚が有効に機能している理由は,
それらの言説をもっとも望み,
それらの言説にもっとも共感し,
それらの言説の矛盾に気づこうとしないのが,
教師自身であるからである。
むしろ,子どもたちのほうが覚めている。
それゆえ,この錯覚は,
教師のモチベーションを高めるために,
都合よく利用される。
しかし,これらは学校の本来の機能からいって
不可能であるがゆえに錯覚なのであるから,
この錯覚に基づいて教育に精励しても,
冷静に検証すれば,はかばかしい成果は出ないものである。
現代のように,
社会全体の教育力が落ちている社会では,
学校という装置は,
本来社会がもつべき教育力の分まで,
過剰な教育機能を要求される。
到底,学校にはにないきれない要請であるのに,
子どもたちの「幸せ」のために,
誠実に働く教師が錯覚ゆえに病んでいく一方,
この錯覚を無意識にか感じとり,
己の存在を守るために,
すべてを拒絶するかのような教師もいる。
さらに,
もともと錯覚には無縁であるのに,
錯覚しきっているようなふりをして,
その実,自らの地位を高めるために,
よろこんで社会の要請に応えるかのようなポーズをとる教師もいる。
そして,そのような教師のもとでは都合のよい成果がでることになっている。
この構造的な矛盾を何らかの方法で解決しない限りは,
教育改革をすればするほど,
学校を「よく」しようとすればするほど,
学校教育は劣化する。
以後,Unkownという名前でのコメントは,削除対象とさせていただきます。
私はこれ以上うまく言えませんし、良い方法なんか思い浮かびませんが、社会はもっといろんな人に寛容であるべきだと思います。社会が子どもたちに合わせるべきだとも思ってます。社会に本当についていけてないのは、未来ある子ども達や青年達ではなく、社会自身だと私は主張したいです。
(お目汚しもうしわけありませんでした)
さて,どんな職業でもそうだと思いますが,自分の仕事の価値をどこかに見い出して,自分の働きは価値のあることだと考えようとします。教師の場合は特に,自分の仕事の価値を非常に高く見積もる傾向があるように思います。その結果,その価値のなかに情緒的な部分が多く含まれてくることになります。今,自分のやっている仕事は国や社会が要求する範囲での子どもの育成をになっているのだということ以上に,純粋に「子どものため」の仕事なのだと思いたい,あるいは教師自身がそのように教え込まれてきたというところがあるのだと思います。逆に言えば,特に公立学校の場合,ミッションに対する意識が希薄だということになるのかもしれません。
しかし今日のこの一文は全く違和感なく、反対にあまり過去の事例も思い出せず、すんなりと読んでしまいました。今までにない、不思議な感覚でした。
ひょっとして管理人様の本値が良く表れている文章かもしれないと思えました。今までの多くの記事がやや誇張やぼかしを多く加えていたのかもとさえ感じました。その点に違和感があったのかもとさえ思えました。
上記の私の推察が正しいとすると、私と管理人様の感覚は非常に近いのかもしれません。そのようにも感じられました。違うならそれで結構ですが。
ここから本音です。私は構造的な矛盾を解決しようとしないでも、体育館でバドミントンを遊んであげると私はいろいろな問題を総合的に解決できると信じています。でも本当は分かりません。
できないのかもしれないと言うべきなのは、まだ誰も信じてくれないからです。誰も私にやらせてくれません。本当に不思議なのです。だって経費はすべて私持ちなのだから、です。
管理人様の学校は東京近郊でしょうか。2時間程度で東京から行けるなら、経費は私で、体育館とバドミントンができる場をただで御貸し頂ければ、小学校5年生から中学一年生の間の生徒さん、20名程度の指導実践をお見せできるように思えます。
私の拙い実践を管理人様が見たら、色々な改善点を発送でき、他の方法があると発想できると思えます。
何もバドミントンである必要はないからです。私はバドですが、数学でも国語でも麻雀でも良いのかもしれませんので。
私は私ができると思うのだから、管理人様も生徒さんを上手く教育できているのでしょう。管理人様もそう思えているのでしょうね。
でも、私は他の先生ができるように指導と管理をして、若い先生を教育できないのです。これが私の感覚でもあります。管理人様はどうでしょう。